別館、身体論・武術・スポーツのお部屋

身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい。また基本長いので長文が無理な方はお気をつけ下さい

ブラック部活動を変えさせた父親の話

「この部活動は長すぎる!」 ブラック練習、変えさせた父親の執念
 日本の長時間労働は学校教育の時点で始まるといっても過言ではないと前から主張してきましたが、日本の社会は無意味な時間的拘束が本当に多い。というか、無駄なことをして時間を使って、相手の時間を奪っているという発想がない人が多い。相手に時間をとらせる=相手の自由を奪っているという配慮がない無神経な人が多いですよね。

 こういうのは学校教育の時点で決まるもの。規範・慣習の領域ですからね。学校行事、運動会だ音楽会だ無駄なことをやりすぎるんですよね。参加する子どもたちにとって良いこと=面白い・楽しいというのならばいいですけど、そうでもないことを意味不明に強制するから学校というのは痛いなぁ・センスが無いなぁと思ったことを記憶しています。

 決まったこと、決められたこと、過去にやっていたことをただ延々と繰り返して行う。呪術の儀式じゃないんだからそんなことやってどうするんでしょうね。まあああやって画一化していくという時代の流れがあったんでしょうけどね。官僚化・法制化というのは一度始まると、箸の上げ下げまでルールを作って基準に従って強制することを求める性質がありますが、まあその流れにあったことなのでしょう。今そのようなおかしな流れが学校現場でなくなっていればいいですが…。

 そんなことはさておいて、一人のお父さんが学校教育・現場のおかしさに声を上げて狂った現状を変えたというお話。中学では部活動が事実上強制である事が多いです。所属していないと高校進学でマイナスとみなされて進学できないというプレッシャーを考えると、嫌でも参加せざるを得なくなる。そうでなくても所属しないと普段行動する仲間を作れないとか色々あるでしょうからね。

 ただ放課後の余暇の過ごし方の一つにすぎない部活動で強制的な活動を強要される=ブラック企業で労働を強制される姿と瓜二つですね。教員が学校の生徒を好き放題こき使うように、企業も社員を好き放題こき使える。そこに人間としての意思や、人間を尊重する姿勢はあるのか?個人的にはないと思います。

 部活動とは言え全国的な大会があり、試合で勝ち続ければ究極的には全国優勝というものがある。そりゃ勝ちたくない人はいない。勝つことで承認欲求を満たしたいのは当たり前。しかし、そんな栄誉にあずかれるのはほんの一握り。そして常識として競技などで強くなってアスリートの道を歩むとすれば、人一倍の練習時間が必要となる。そのようなアスリート路線を歩む特別な練習をするのは才能と強い意志のある特別な子だけ。

 そんな特別な練習を子供にさせるのは構いませんが、部活動としてまず子供に確認を取っているのか?部活の顧問が毎年入部する生徒に「君たちはアスリートになりたいか?厳しい練習でいいか?」という確認を取っているという話を聞いたことがありません。顧問が普通の人で、そういう路線を強要しない限り、あたかも自明の公理のように軍隊のような厳しい練習、プロを目指しているような特訓を強制されるというのはフェアではない。

 1年・2年・3年と学年ごとにエンジョイ路線とガチ路線で別れることもあれば、学年内部でも当然別れることがあるでしょう。むしろどちらかでまとまるほうがレアなケースでしょう(※)。そういう前提を無視して顧問が、特に外部指導者が君臨することがあるという公立学校の現状には違和感を通り越して、頭がおかしいと感じますね。

(※―これまではガチ路線・高圧的な指導者を批判してきましたが、当然その逆で本当はガチ路線でやりたいのに、周囲がエンジョイ勢でやりたい練習がまるでできない!という可哀想な目に遭う目線の高い子もいるでしょうね。そのことも当然考慮しなければいけませんね)

 部活動に参加しなければいけない縛りもそうですし、嫌なら厳しい部活に入らなければ?という感覚もおかしいと思います。好きなことを楽しくやりたいという普通の感覚が通じないのはおかしい。それこそなぜ子供の部活動ごときで、真面目に勝とうとしない者は迷惑だという感覚が正しいこととされるのか理解が出来ない。健全な人間として発達してもらうことこそ学校教育であるべきことではないか?成長はともかく、勝利を重視するのはおかしい。勝利至上主義と練習(拘束)至上主義が蔓延するのはおかしい。

 昔はお父さんが仕事ばかりして子供が悲しむ、あげく家庭内でお父さんの居場所がなくなるなんていう話がありましたが、このケースでは娘が部活で父親とまともに会話できないというのですからね。狂ってますね。オリンピック出るとか、プロアスリート目指しているとか、そういう特殊な事例ならば理解も出来ますし、それについておかしいぞ!なんて口を挟みませんが、そうではないですからね。子供と触れ合うかけがえのない家族の団らんの時間を学校・部活が奪うのですからね。人間が消耗してもかまわないというメンタリティは教育現場に始まるということなんでしょうね。組織が所属する人間に対して、全人格的服従を強いるメンタリティは本当なんとかならないものか…。

 部活動が強いということがPRになるというのが意味わからないですね。○○校の校長です。ウチは△部で全国に出ていまして~なんていうことになっても、それがなにか?にしかならないと思うのですが…。よくわからない感覚ですよね。

 まあそりゃ、学校に何か取り柄がある方がいいでしょうけど、なくても大して変わらないでしょう。学校単位で競争して、順位が下がったら給料下がるとかそういう実力制度でもないのですし。

 そもそもプロアスリートやオリンピック選手などを輩出するレベルでないのならば、そういう生徒を入試で優遇する意味や必要性があるのか?学力以外でプラスとしてカウントする今の評価システムは救済措置として本当に機能しているといえるのか?苦痛・苦行をさも当たり前のように強いる部活動制度はなくすべきだとおもうのですけどねぇ。

 学力がなく、進路で不利。故にグレるみたいなことが考えられて、そういうことをなくそうという趣旨ならばまあ理解できるのですけどね。じゃあ普通に学力がちゃんとある一定数の生徒にまで部活動やらせる必要ないだろうという気がしますねぇ。でもそうやって勉強が出来ない子ばかり部活強制にすると、それはそれで問題が起こるんでしょうけどね。

 やっぱり、学校という既存の制度の枠ではなく、地域のプロ傘下クラブだったり、スポーツクラブのような形にした方がいい気がしますね。ガチはそっちで同好会を学校にするとか色々考えられると思います。少なくとも既存路線のまま手を入れてこなかった、メスを入れて大改革をしようとしなかったことこそが、何より大問題なのでしょうね。

 まあ、今の政権を担っている顔ぶれ然り、そういうことについて違和感を感じない人たちっぽいですからね。学校教育制度について熱心な大臣の一人でも出てこないですかね…。