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身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい。また基本長いので長文が無理な方はお気をつけ下さい

【雑誌】 月刊秘伝 2013年08月号

月刊 秘伝 2013年 08月号 [雑誌]/BABジャパン
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メンタルトレーニング特集ですね
 弓道啓進会、精神科医の守屋氏の話が面白かったのでメモ。的は鏡であり、その鏡から自分を見る客観視が必要。世阿弥のいう「離見の見」、我見から離れることが大事。弓で大事な「離れ」、右手で離せば矢は飛んでいくが自分の意図で離してはならない。力のピークではない。離す瞬間は力が最大限であると同時に力が消滅するタイミングでもある。山なりに力がピークに向かい、「離れ」のあとすこしづつ力が消滅するようではダメ。おそらく力を意図的に入れる・出すのではなく、意図せずに行われることがポイントなんでしょうね。

 心は揺らいでいい。良い動きをし続けることで無心にしていく。初心者は的が小さく見える。それは的を力んで見つめてしまうから。修練が進むと大きく見えるようになっていく。調子がいい時は周囲の的全部見える。視覚映像だけに囚われる時心は居つく。多方向から捉える。的の鏡からも同時に多方向から観ると。そうなった時はかならず「中る」(必然性を伴った的中を
「中る」という)。

 見ようとすると居着く。身体ではなく認識の居着きでしょうね。「金体白色西半月」金星が輝けば半月が輝く、宇宙と一体になるという理がそこにはあると。自分と相手、自分と的という発想・認識では壁を超えられない。自他同一、対象との同一化、調和をしなくてはならないということでしょうかね、やはり。

 清心館 佐原文東氏、中川二三夫氏や出口衆太郎氏も師事したという秩父におられる禅の師匠はどんな人なんでしょうね。気になりますね。メディア嫌いで公にでないということですが。


 昔面白いと書いたサイバーヨガ。テストで落ち着けば音が消える機械のテストをやる。消える瞬間また音が高まってしまったと。人間は出来る!勝った!と確信するときに心が乱れる。落ち着こうとしても落ち着けない。コントロールしようとするとかえってコントロール出来ない。それにとらわれないこと、放っとくことでコントロールできるようになると。

 瞑想をすれば、「島」「背内側前頭前野」と呼ばれる部位が分厚くなる。MRIでも厚いことがわかると。この部位をメンタルトレーニングで事前に鍛えるべきだと。

 失敗の原因は扁桃体にある失敗の記憶。失敗を強烈に記憶しないと同じ間違いを何度も繰り返すからストックされる。大事な時にこの苦い記憶が出てきて動きをまずいものにする。自己の意図と矛盾した指令が扁桃体から出るのだと。矛盾した指令により筋肉が混乱して動かない、誤作動を起こす。

 いわゆるイップスとかですね。そういうのは扁桃体の作用によって起こると。扁桃体を作動させないためには過去にとらわれないこと。かと言って逆の未来でもなく、この今に集中すること。まあただ「今」だけに集中するというのは基本ですよね。

 空気イス・うさぎ跳びのような辛いトレーニングは、苦しみを放っておくことを伴えば、実はいいメンタルトレーニングになる要素があった。

 「悪い」というレベル付けによって脳はストレスを感じる。日常のちょっとしたイラッとすることに反応しないようにする。電車で押された・足を踏まれた、そういうことを悪いことだと思わない訓練をするのがいいと。


 
無想会・新垣清氏の講習会のレポートですかね。新垣先生の本は大好きですし、また読み返そうと思ってます。重力の落下、位置エネルギーの利用というのはものすごい参考になりましたしね。しかし、以前何か違和感を感じると書きましたが、おそらく広背筋や大腿筋膜張筋などを使うという主張なんか見て思ったのですが、「本当に使うべき筋肉はどこか」というところにポイントを置きすぎているところにあるのかなと今号呼んで気づきました。

 ガマク・チンクチ・ムチミという沖縄空手の口伝を一般化させたのは新垣先生の功績なわけですが、そのエネルギーの秘密を筋肉に求めすぎているのではないか?とちょっと気になりましたね。
 
 高岡さんが言うような土台・体幹の揺動化、人体の中心の多極化とか、そういう発想が取り入れられていないのがまずいんじゃないかな?とか思いました。


 
構造動作トレーニング 中村考宏氏―後ろ重心で足の指が浮いてしまっている。浮き指にならないこと。指先の腹が全て接地することで膝・股関節まで十分に機能するようになると。関節が稼動するには遊びが必要。つまり中間・ニュートラルを保ち続けることですよね。蝮指、指が潰れる・反るのはダメ。でも反る・潰れるのは二本だけですよね。親指・拇指球がブレーキ、小指・薬指がアクセルの役割。大事なのは小指の機能と。

 読者コーナーかな?宮本武蔵のつま先を浮かせて踵を強く踏むべしという教えと矛盾する。この使い方でいいのか?という指摘がありました。まあ剣を振るうための足の使い方&立ち方と、普段合理的に立つ&歩くは当然異なっていいわけですが、その違いなどを語られると面白いかもですね。


 溶粘歩動法、全身運動として人にもっとも重要な歩行運動の質を高める「
歩動」の重要性。寿命が伸びて、運動可能年齢との間に開きができた。人間は死ぬまで動けるべき。歩けなくなることは、その本人にとっても社会にとっても損失が大きい。溶粘歩動法はその運動可能年齢を引き伸ばす最高の方法と。武道家でさえ、車椅子生活という話を実際に見聞きしていると。専門種目の運動というのは偏りが大きく、自然な連続運動に適したものではないと。

 高岡さん自身が歩けなくなるという危機、引退不可避という事態に直面して、そのために出来たのがこの
溶粘歩動法だと。歩けないと言われる怪我・状態を克服する素晴らしい訓練・鍛錬法というわけですね。


 護身、廣木さん。プロレスラー・ボクサーと戦っても勝てるという蟷螂拳の強い人と立ち合った話。というか相手の仕掛ける技を防いだ話ですね。これで公園でこれまで交流していた中国拳法の人との縁が切れてしまったと。まあ他流批判をする奴に限って、大したことがないという松田先生の言葉通りなんでしょうね。

 アダプターテクニックの話し然り、自分の技術を相手に合わせて、しっかり発揮できる戦略・戦術がないといけない。そういうのが不十分だったのでしょう。高岡さんが武道家の「お手盛り」批判のところで、実際に自分の技術が使えるのか、通じるのか、適切な相手と戦う必要(検証する必要)がある―と言ってましたが、その検証の仕方が甘かったんでしょうね。

 井の中の蛙状態で、格下だったり、日本から弟子になりに来る人間ばかりを相手にしてそれが不十分だったのでしょうね。まあ中には自分の流派は強い、他は弱い!欠陥がある!と批判しながら、勝負を挑まれたらやらずに済ます人すらいますから、それよりはマシなのでしょう。武術を名乗り、その実戦性と強さを謳うのなら、戦って証明しなければ意味が無いですからね。

 空手なんか大したこと無い!と件の蟷螂拳の先生はおっしゃったわけですが、「空手」だけは研究していて、空手家の癖・対処法というものを知っていたかもしれませんね。もしかしたら空手家なら完璧に技をかけられたのかもしれません。しかし、いつもの通りやったら、ボクシングもプロレスも学んで喧嘩で実戦の場数を踏んでいる廣木さんが想定外の対処法をした―そういうことなのかもしれません。まあ自流をことさら凄い!と言ってしまうのは先祖代々の拳法は無敵なんや!と思い込んでいただけかもしれませんが。

 中国拳法をやりに来ようと中国を来る人は、そもそも中国拳法や中国にロマンを感じている人。当然そういう人が、有効性に疑問を持って、技術を無効化するためには~と考えて、普段の稽古で師匠の技・技術を潰すわけないですからね。普段からそういう「お客さん」を相手にしてしまって、「お客さん」と「敵」の構造の違いに気づかなかった。「お客さん」に対して対処できることを以ってして、「敵」にも完全に対応ができる!と勘違いした。結果、不覚を取ることになってしまったのでしょうね。

 大体、廣木さんは、「受けた」だけ。わかっていても当てられるというその打撃を防いだだけで、廣木さんの攻撃があたるかわからない。廣木さんが攻撃に出たら、それを受けて対処するという方法だってあったはずです。廣木さんが専守防衛でいいのなら、廣木さんが有利になるに決まっている。そういうことも理解していなかったんでしょうね。自分の出す攻撃を防げたら相手の勝ち、防げなければ自分の勝ちというルール設定からして、自惚れていますよね。

 通じなかったら、次の技・その次の技、また違うパターンの攻防テストへ~と試していけばいい。全部通じなかったら、「あなたは素晴らしい。いや勉強になりました」でお開きにすればいい。それが出来ずに「危険な技で使ったらあなたの身が危ないから…」なんて負け惜しみを言うのは自分の格を下げるだけだと思いますけどね。

 武術家として技の検証・テスト、他の技術体系の研究を怠ってはならないのに、そういう基本原則が守らない風潮が中国拳法界にも当時蔓延していたのでしょうね。

 日本武術界でも、そういう構造が蔓延ってしまい、武道の実戦性が形骸化してしまったという過去・教訓があります。これに甲野さんや高岡さんが警鐘を鳴らしたわけですが、果たして今その構造は変わったでしょうか?甲野さんの「出来ねば無意味」というスローガンを見当違いな捉え方をして批判している人もいましたけど、武術・武道はそりゃ、基本的には「出来なきゃダメ」でしょう(あくまで基本的にはですよ)。当たり前ですよね?

 そういう話を聞くたびに、佐川さんなどを始めとして、いろんな武術や格闘技の研究を怠らなかった先人に尊敬の念を覚えますね。あの当時ならなおさら。


 天野さん、立禅で鍛えるのは内向きの力。立禅をしながら、身体の内部に向かう力を養成するもの。外向きに、
足で強く蹴って、それで前に踏みだそうなんて立禅と真逆の行為、矛盾した行為をやっていた、気づくまで時間がかかってあほらしという話。それくらい思い込みというのは怖いという話。


 近藤さん、早撃ちガンマンの話。達人が0.4秒で早いと言われる世界で、0.0175秒で撃ったと。トランプのカードを撃つのだが、ど真ん中を撃つのではなく、タテに切り裂く。よほど対象を見きっていないと不可能な芸当。んで居合の話。八つに割った身体を順番に衝突させてエネルギーを伝えていくことで異次元の速さの居合が可能になるとか。


 藤本さん、内観で目をつぶる。のち見たいものをみる。リーチする。普段目は見たくないものを見させられている。他人の意志・主導で何かをさせられている時は、自分の意志・目の欲求によってものを見ていないためにストレスがかかると、なるほど。子供のキョロキョロは「見たいものを見る」という目の欲求に従った行為なんでしょうね。

 半眼、目を閉じると内部への意識が主体になる。開くと外部への意識が主体になる。半眼にすると両方バランスよく出来る。歯医者の治療で目を閉じると内部感覚主体になるのでより痛みを感じる。半眼は痛くてもひどくならない。痛みがトラウマとして残らないので、その後に痛みを引きずらないんだとか。内でも外でもない、丁度良くつながっている、平らになるのがいいんでしょうね。自己調整能力がスッと働きやすくなると。半眼が難しい、やりにくいという人には、仮面越しに外の世界を見るというイメージを持つと自然に半眼になるとのこと。