読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

別館、身体論・武術・スポーツのお部屋

身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい

『武道の科学化と格闘技の本質』読んだメモ

武道の科学化と格闘技の本質 (武道論シリーズ)/恵雅堂出版

¥2,310 Amazon.co.jp

武道の科学化と格闘技の本質/メディア・サーカス

¥価格不明 Amazon.co.jp

 上が本で当然もうないですね。下がKindleKindle結構あるんですね。これだけちょっと長いので単独で上げました。読んで気になったメモ。

 巻末を見ると、この武道論シリーズは全8冊の予定だったみたいですが、途中でどっか行っちゃってますね。『武道・言語・意識』なんか、意識のあり方をどう論じるか興味深い、読んでみたい感じがするんですけどね。あと『スポーツと記号』は関係主義運動科学シリーズというもので、これも全8冊の予定だったみたいですが、『スポーツと武道のやさしい上達科学』に吸収された一冊を出しただけで終わってますね。スポーツ記号学というもので科学化を図ったということでしょうね。このシリーズの中に『構造運動学』というものがあって、スポーツというものを構造主義から捉えるアプローチを予定していたみたいですし。

 しかし、まあスポーツシリーズというか、記号論で云々かんぬんするアプローチは面白くなかったという印象があるので、途中で止めて正解でしょう。その後鍛錬シリーズ四部作に吸収発展されるように、スポーツ・武道のhowto上達のほうが読者の興味関心を占めますから、そちらを手がけるほうが出版社的にも有難かったでしょうしね。学問化を図ることで、本人が死んだあとでも業績が残る、生きてくるというのはあったかもしれませんね。100年単位で評価されるというのが学問化の大きなメリットですし。

 この時期の高岡さんはやりたいこと、書きたいことが多すぎてまとまりがつかなくなっているという感じがありますね。試行錯誤段階といいますか。

 ※あ、それとも恵雅堂出版という出版社自体がなくなったんですかね?出版を予定していても出版自体ができなくなったとか?まあそれならそれで他所で出せばいいだけですが。

 武道あるいは格闘技という現象を科学化するためにはどうしたらいいか?という指南書のようなもので、地味にそういう「科学化」を志向した人はいないので高岡さんのこの本というのは学問的に非常に価値が有る本なのではないでしょうか?問題はその後進がいない、あまり多くの人がそこに関心・興味を抱いていないという点でしょうか?

 バイオメカニクス・生体力学のような、どうやったら「技」がうまくなるか?とか合理的な身体の使い方になるのか?とかそういう一部においての科学化というのは盛んに行われているわけですけど、「武道」という人文社会学的なジャンルから学問化を図ろうという人はなかなか出てこないでしょうしね。異種格闘技というものがあるように、それぞれの武道を比較して研究しても、プロレスや格闘技雑誌に載ってるようなワンコーナーの「果たしてどれが最強の格闘技なのか!」的な好事家感を脱し得ないといいますか。

 個人的には「何故伝統空手がこうなっていて、少林寺はこうなっているのか」「合気道は~?」「柔道は~?」といった単なる競技論にとどまらないその背景を探ること、その将来性などを見つめるのは非常に面白いと思います。またその思想・文化など歴史的経緯など交えて考察する、構造を解き明かしていくというのは非常に有意義だと思うんですけどね。まあやっぱりこういうのはジャンル・扱う対象が巨大・膨大、大きすぎるし多岐にわたりすぎてしまう所が問題なのでしょう。まあ、広い分確実に色んなジャンルの人がほう?どれどれ?と気になって読んでくれはするのでしょうけども。

 問題は学者がそれを読んで、その問題意識を共有するか?研究を引き継いでくれるか、一部分でもやってくれるか?というところですよね。まず出来ないし、やれないでしょう。ですから先ほど言ったように、まずバイオメカニクスの方、いかに効率的なパフォーマンスが出来るか!?というものへの実証的研究を行って業績を残して、そのあとでこういったものをやって、「こういうのが実は武道の科学化をやる上で重要なんだよ~。こういう手順を踏むんだよ~」と世に広める手順を踏まないと実らないでしょうね。

 ※そうそう、この時期ではバイオメカニクス的な研究でさえあまり武道家が協力していない、太極拳の一部のデータくらいしかないという武道の科学化がいかに乏しかったかという話もありましたね。

 ただでさえ文系の学問だと、哲学とかこういうことをやるのが大事なんだぞ!と主張してもその重要性の認識はなかなか共有されるのが難しいですからね。今世に出ている新進気鋭の若手学者!なるものが胡散臭いことを見れば一目瞭然であるように、きちんと評価されるようなシステムになっていませんからね。たまにブームのようにこれだ!というアプローチが流行るけど5年、10年たつと下火になってその提唱者以外誰もやらなくなってるみたいなことになることが多いですからね。

 関係無いですけど高岡さんの二人の兄が研究資金の支援をしたんですね。兄の部屋の物理学の本にアインシュタインが載ってて小学生の頃?日がな一日眺めていたという話がありましたが、かなり年上ですよね。お兄さんも武道やってたり、なんかの研究者だったりするんでしょうか?

前置きが長くなりました。本文について―

 面白いのは関係主義的に見て、部分で批判することを否定するところですかね。単純なパンチ力測定のような一部を切り取ったデータ測定は無意味であるし、空手の前屈立ちという一部要素を取って全体の構造を見ずに「あんなのは意味が無い!」と否定するようなことではダメだと。

 人間の意識も相対性理論のように、突き詰めると認識能力が高まる・通常の認識能力を超える、とか意識の構造の話すごく気になりますねぇ。面白そうな話なんですけどねぇ。続刊シリーズで書くのをやめたということは単にそれを書いても個人的な体験の紹介になるだけだからなんでしょうかね?まだ研究成果が世に受け入れられる状況ではないという事をよく言ってますし。この研究の初期時点でそういう話をしても、まるで理解されない。研究者にそういう話をしてもあまり通じなかったんでしょうね。何言ってるかわからないという反応しか帰ってこないから止めたという感じなんでしょうか。

 p91、イソップ寓話から採用して自分に有利なように価値観を操作することをコウモリズムと名付ける。このコウモリズムが働いて武道の科学化を避けようとする心理が働いている。開祖・師範の権威を守るため、もしくは勉学嫌いの劣等感などから科学化を避けようとする傾向がある。

 植芝のような神秘体験を経験したし、それが事実として理解できる。しかし、それを信奉はしない。相対化して客観視しなければ信仰になってしまう。武道家が宗教家になるのはその神秘体験のためだが、科学者としてはそれを相対化して捉える必要性があると。そして科学も測定の一手段であって、同じく信仰化するリスクがあるのでその危険性は踏まえておかなくてはならないと(p100)。面白いですね。しかしいつか高岡さんみたいに、武道をやって高度なパフォーマンスを実行する能力を持ちつつ、かつ科学から解き明かそうという人が出てくるんでしょうかね?そういう人が出てこないと研究成果が放置されて終わってしまいそうですね。

 藤平氏の心身統一合氣道の科学化の拒否に対して、塩田氏の合理的な姿勢。研究に非協力的な姿勢を見せる心身統一合氣道の話(p153)。そういえばこれまで吉福康郎氏や南郷継生氏のようなものくらいしか、科学化のアプローチを図った本はないんですよね。今はまたちょっと違いますけど。でも山田英司さんの本くらいですかね?

 しかしこういう協力を断られたエピソードを載せてしまうと、心身統一合氣道の人は怒るんじゃないですかね?まあ合気会の9段か10段か忘れましたが、そういう誰かをまるで出来てない、形骸化しまくってるという厳しい批判をしたこともありましたし、合気系統の人だけでなく空手系の人とかでも否定的に捉えられることは多そうですね。確か空手協会は高岡さんとか甲野さんとかそういう著書を参考にしていたので、今見る限りではそういう否定的な姿勢を取ってるようには見えませんけど。

 塩田剛三さんが高岡さんとの対談に応じたのも、このことが噂になって耳に入ったというのがあるんじゃないですかね?それと科学化というものに興味があったということなのでしょうか?

 パンチ力測定の結果、拳よりもグラブの方が脳ヘ与える影響は大きい。五名のボクサーにベアナックルでスパーをさせた実験では、間合いが広くなり手数は30%減った。打たれることも打つことも、グラブなしでは極端に怖れるようになり、かえって安全性は高まった(p124)。

 空手は移動しながらの動きに向いていないというのは誤り、これについては『構造運動学』で述べるとありますが、まあ『空手・合気・少林寺』に書いちゃったんでしょうかね?移動「して」突く、移動し「ながら」突くの二種類あって空手は後者に本領がある。これをAFSとBFSの違いと書いてますが、どう略したんでしょうね?AFSとBFSって。まあ一挙動と二挙動ということでしょうか。南郷理論はBFSを正確に理解してその体系化を図っているという点で極めて優れていると。吉福氏の計測はBFSができる者によるデータではないから踏み込んだらパンチ力が落ちるという結論になってしまっている。BFSがきちんと出来るならば、移動・踏み込んで突けばパンチ力は上がる。

 そういえば、子供の頃空手を習った時、移動突で足を運んでから突け!と怒られた記憶がありますね。どうしても移動突で手が先に出て、それを無茶苦茶怒られましたが、あってたんじゃん…。子供の頃は先天的に移動しながら突くという動きをしていたんですなぁ。しかし、今でも協会の技術体系だと運足のあとで突かないといけないんでしょうかねぇ…。腕ではなく、胴の力を伝えるためには移動してそのエネルギーを伝えるのが効率がいいはずですからね。

 モハメド・アリは来日した時パンチ力測定マシンを本気で叩かなかった。フライ級くらいの数値しかなかった。彼は極めて頭がよく、こんなことが無意味であることを理解していた。そういや後述でノックアウトするには当ててから力を入れればいいって書いてます。そのパンチには殆どパワーは必要ないと書いてますけど、そのタイミングでKOする打ち方で叩いたんじゃないでしょうか?

 大学生がスリを捕まえようとしてナイフで刺されて死んだ事件について、冬の登山のようにちょっと状況が変われば死にかねないというリスクがスリを捕まえるという事象にも有る。その危険性を認識していなかったこと。サッカーを嗜んでいたように、獲物を一方的に狩るというような楽観視があった。後日もう一人の追いかけた友人がそういった発言をしていた。そういう価値観がまず悲惨な事件の結果にあった。

 そして逮捕するときの警官もそうであるが、相手が武器を持っているというリスクを考えれば、先制攻撃をして制圧するのが身を守るためにときに必要になる。しかし現代ではそれは許されていない。相手がどんな攻撃をしてくるかわからない状況で取り押さえるのは難しい。もし、相手がナイフを持ちだしたところ角材で反撃したら過剰防衛になる。刑法・司法警察の論理の甘さがそこにある。

 まあ今と社会状況が違うのであれですけど、取り押さえる前にアメリカみたいにハンズ・アップさせるとか、そういう対処法・やりかたというかルール整備の必要性はありますよね。それと過剰防衛ってそんな厳格な適応がされないという話を以前ブログで書いたように、このようなケースではよっぽど無抵抗な相手を徹底的に痛めつけでもしなければ、罪に問われないでしょう。それとも物盗り的な犯罪者をそこまで厳しく罰する必要性があるか?という話になりますよね。凶悪犯でもない限りはやっちゃダメよということでいいんじゃないでしょうか?相手が強盗とかなら住居侵入で危害を加えても、ほぼ罪を問われませんからね。

 それと警官が無抵抗の知的障害者を逃げたということで取り押さえた、目撃証言によると無抵抗にもかかわらず何度も殴りつけた結果死亡させたという事件がありましたが、無罪判決が下りました。警察内部では万一のことがあっても警官だったら無罪になるから、みたいな価値観が浸透しているんじゃないですかね?こういう事件の背景にあるのは?警官側の過剰暴力というのも当然問題になるわけですから、さっさとルールを作らないとマズイと思いますが…。

 大山空手、実戦空手が世界中に許容された。宗道臣や伝統空手はフルコンタクトを否定しているが、それは何を以って暴力的とするかの基準の違いによる。沖縄から本土に来るときに「組手」というものがそもそもかなかった。故にルールがなく、1924年約束組手を大塚博紀が作り、1929年に東大空手部で自由組手が盛んに行われるようになった。大学交流が盛んでその際に交歓試合で組手が重視されるのも自然の流れ。防具が出てきても寸止めが主流になるのは、練習・競技・組織などの色々な構造・体系がしっかりしていない上に、防具などを簡単に買えない・お互いで一致しないこと。ケンカに発展するリスクが有ること。そしてそれを防ぐような組織がなかったことなどが考えられる。競技とケンカ、武道と暴力の区別がされていなかった事が大きい。

 まあケンカが当たり前の時代でしたからね、そんなこと道場でやらなくても路上でやっていたんでしょうけど。寸止めにしないとめんどくさい事になる背景があったというのは面白いですよね。そもそも昔の人はこうやってこう殴れとかあんまり教えなかったんでしょうね。型やらせるだけとかで。んで野試しでやりながら教えていたとかそんな感じですかね?道場入門で10年かけて育てるみたいな徒弟制的な観念のもとにあったでしょうしね。そういう時代にあって実際にボカボカ殴るのを否定するのが武道の中で基本だったのはごく自然なことなんでしょうね。

 そして大山氏がフルコンタクトを提唱した、実践を重視したのはボクシングやプロレスなどのショーとその強さの論理の明確性のためでしょうね。また競技化の流れの中で言わば「剣道化」ですからね、その「剣道化」というルールでは自分は不利だ!と思う人々は、耐久力を競える「ボクシング化」を求めるのは必然でしょうからね。実際に当てる・当てないだとボクシングがそうであるように、競技の人気・興行性と直結して来ますからね。

 もしベアナックルだったらボクシングはもっと地味だったし興行として魅力に乏しくなったでしょうからね。より派手に当て合う、殴り合いが擬似であれ見られるところがボクシングでは重要ですからね。極真でグローブをつけていたら?と思いますが、空手という競技をPRする上でグローブをつければボクシングとの差異化ができなかったでしょうから、それを採用するはずもないですね。だったらボクシングやれよ、キックボクシングでいいじゃんになりますから。

 関係無いですけど、カリスマの死後組織が分裂してルールもバラバラグローブつけたり、総合化したり、迷走していると見る向きもありますが、むしろ数見さんのように優れた実績を持つ人でも空手とはなにか?を探求し続け、宇城師範やら色んな人と交流して技術を高めようという姿勢は素晴らしいと思いますね。むしろ正解・答えを模索し続けるその姿勢にこそリアリズムに必要な柔軟性を見いだせると思います。進化のためには変化を嫌っては話になりませんからね。

レナードとハグラー戦の話

 フォアマンはロングフックが並外れて強いだけ。アリは左ジャブがうまい。「当て」がいい。レナードに比べるとアリのフットワークは大したことない。ヘビー級は大きいぶん起動が遅い、早度が低い。一旦動いたらその分速くなる。瞬間的な速度は速い。早度が低く技術などヘビー級は全般的に低い、ジョフレなどの方が技術は上。レナードとハグラーという名勝負はミドル級だからこそ。ベアナックルならレナードがハグラーに勝つ。彼らのパンチなら当たっただけで切れる。顔面がぐちゃぐちゃになる。「当て」る技術があるが故、パンチ力としては殆どないがそれで切るには十分。ハグラーは負けたとは思ってないだろうけれど、ボクシングという競技を考えればあれはレナードの勝ちになる。競技化すると最初目指していた本質とは大きく変わってしまう、競技で勝つことが突き詰められるから。大山空手と極真空手が異なるのもそのため。

 顔は人間の認識と行動が作り出すもの。昆虫とは違う。顔に現れる。そういえばボクシングも基本BFSになっていない。そういう技術体系だという話がありましたね。ハグラーが勝つにはAFSからBFSにならないといけないと。そもそもBFSがボクシングという競技において可能なんでしょうか?

 空手と剣道の踏み込みは共通する(p240)。踏み込んでいく、空中における一瞬の状態がまさしく前屈立ちの姿勢を取る。前屈立ちというのは踏み込む技術を養成するために効果的な練習方法。そういえば剣道にはないと書いてありましたが、なんで剣道にはないんでしょうか?剣道も昔はそんな感じの練習があったんでしょうか?撃剣以前の剣術にそういうことをすると、斬られる危険性が増すから、そういう技法は否定されていたとかそういう事情なんですかね?

 全然関係ない所で戦争肯定論者だと批判されたという記述がありますが、まあ時代ですね(^ ^;)。

 20冊以上本を出すつもりと書いてありましたが、つもりで終わりましたね。上達と適応の違い。機械は使い方を覚えればいい、適応すればそれで終わる。人間の文化は「上達」を求める。どんな小さいものでもそこに上達を見いだせるのが人間。エアロビマシンで何分やってと、機械が要求するメニューに適応するようなトレーニングでは上達の余地が著しく狭くなる、創造的に上達を求める意欲がそこにはない。

 武道・舞踊・ヨガなどは「実体的限定」を乗り越えようと努力するもの。身体で限定されているものを乗り越えて何かを手に入れようとする。であるが故に機械で身体を閉じ込めてしまうというようなアプローチを受け入れるはずがない。限定を超えるのが目的なのに、機械に限定されることなど本末転倒。