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身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい。また基本長いので長文が無理な方はお気をつけ下さい

【雑誌】 月刊秘伝 2013年09月号(※平直行氏批判)

月刊 秘伝 2013年 09月号 [雑誌]/BABジャパン
¥1,018 Amazon.co.jp


 大道塾の藤松さんのインタビューがあります。特殊部隊とかSPとか生き死にの闘いをしている人ほど、「胸のライト」の技術は有効だった。黒帯の先輩のパッサイの足刀蹴りは、自分が求めているロシア人の足を折れる蹴りだったなど。


 由流体操、人間の能力は具体的能力と本質的能力に分けられる。その本質的能力を鍛えるのに大事なのが、下腿膝擦法。その次に重要なのがこの
溶粘歩動法。歩けなくなる危機に直面して生み出されたこの方法によって、今でも歩けるようになっていると。それだけでなくスキーでコブ斜面10本クリアという非常に難しいパフォーマンスを体現できるほどの能力をもたらした(あるいは歩けなくなるほどの深刻な故障を抱えながらも、パフォーマンス低下をもたらさずに素晴らしい能力を維持することが出来たということかもしれません)。

 全身を使う、統合運動・協調運動であること。上下左右で無理な偏りがないバランスの良い運動。つまり自然な動きであり、故障しにくい。だからこそ人類の誰もが当たり前のように歩行をする。最高を仮に十段として、だれでも初段から三段くらいの実力を持っている運動。だれでも基本ができている運動は他にない。他に探してあるとすれば呼吸くらい(心臓の拍動すらも運動としてカウントすると、いずれこの呼吸の話ももっと詳しく出てくるのでしょうかね)。

 歩きはあらゆる運動の基本、四足・ハイハイをすることで歩行能力は鍛えられる。紙おむつなどの影響でハイハイをしない赤ちゃんが増えている。これでは歩く能力は鍛えられない。四足・ハイハイレッスンがそのうち出てくるだろうと。便利のツケで自然に四足をする環境が奪われ、教室を作って不自然に四足を学習しなくてはいけないという時代になっている…。運動不足になる社会を作っておいて、やれアスレチッククラブやスポーツジムだという社会になっている。

 歩きは身体と脳の基本になっているので、上達すれば必ず他の分野でもプラスに作用する。全身運動で、代謝・心肺機能を刺激して活性化させる。これは意外にも武術・武道の専門種目では鍛えられない。技を大切にして修練すればするほど、偏った動きで心肺・血管・代謝などは高くはならない。意外と不健康になりやすい構造があると。


 
平直行さんの武術のパラダイムシフト、これまで面白いな―と思って読んできたのですが、この回はかなり「!?」な回でした。大丈夫かな…と思いましたね。

 武術が大好きになってきて言わなくてはならないこと。それは格闘家からは武術は認められていないこと。神秘化が武術を怪しくしている。それで実践しないのならなおさら。トップの選手で強いと思っている人はまずいない。道場チャンピオンという言葉があるように、実際の喧嘩なら強いという理屈も怪しい。アウトサイダーというイベントで町の喧嘩自慢は、トップどころか下位のランカーにも及ばないのが現状。

 プロと素人が違うのはディフェンス技術。喧嘩は一発当てたらそれでおしまい。それ故にディフェンス技術がない、だからどんなに喧嘩が強くてもリングでは通じない。当てられた時ではなく、自分が相手に一撃を与える時が一番怖い。それは相手も自分に一撃を当てられる距離だから。相手に攻撃する時、それは防御に注げるリソースが減る、相対的に下がることになる。そのときが一番危険なとき。

 ディフェンスだけに徹していれば、防ぐこと・KOされないことというのはさほど難しくない。実力差があってディフェンスに徹されれば簡単には倒されないもの。もちろんそれではプロとしては食っていけないが。意識を失っても動く、パンチが顔面にあたった瞬間にずらす―そういった訓練を積んでいる。パンチドランカーになってでも、毎日そういう訓練を行うからこそ当てられた瞬間に当て返すといったことが可能になる。

 で、有名な武術理論家が打ってきなさいと技を見せていたが、その程度のことはプロなら誰でも、どんな低いレベルの選手でも出来る。それをもって強いという選手はいない。現代にできた武術が怪しく見える…。

 多分甲野さんのことですよね、これ、他に理論家といえば、日野さんか山田さんくらいしか思いつきませんし、テレビに出るといえば甲野さんしかいませんよね(本かなんかで甲野さんに寄稿文を書いて、それが載っているのでもしかしたら違うかもしれませんが)。

 知恵や知識として武術を認めてはいても、強さとしては否定するということなんでしょうか?うーん、そりゃ武術家・武道家で実際に現役格闘家と戦って勝てる人間というのはごくわずかでしょう。自分は強い!我が流派は無敵!なんて言いながら実際に戦わないという態度をとる卑怯な人も少なくないでしょう(実際戦ってトッププロでもない人にボコボコにされた人もいましたけどね)。

 神秘化・秘術化して、科学化を拒否する姿勢も未だにあるところはあると思います。それでいて格闘技を見下すような卑怯者も中にはいるでしょう。しかし実践&実戦しない人が皆無というわけではない。そのあとに島津先生の柳生心眼流の教えを受ける話が出てきますけど、実際に戦ったら、そらプロ格闘家の平さんが勝つでしょう。全盛期を過ぎた今、どうなるかわかりませんけど、全盛期ならトッププロだった平さんが多分勝つでしょう。

 それをもってして武術なんて!と言い出すのででしょうか?無論、師事して教えを受けている以上そのようなことを言い出すつもりはないでしょう。しかし伝統の知識・知恵が素晴らしいから尊敬するということは、そうでない流派なんかクソだ!ということになってしまいますが、それはどうなるのでしょうか?

 もちろん、言いたいことは分かるんですよ。でもこの書き方だと危ないんですよね。批判をする以上、すごく丁寧に書かないといけない。甲野先生じゃないにせよ、そういう人を批判するようなことを書くなんて大丈夫かいなと思いますね。実際テレビでやったというように、「打ってきなさい、これができるから、私はトッププロよりも強い。相手の攻撃を無効化して、格闘技のチャンピオンだろうが倒してしまうぞ!」なんて言い出したのだったら、ただの馬鹿でしょうけど、その話はこういうこともできるのよ?という単なるデモンストレーションでしょ?それをもってして、怪しいと言うのはヤクザの因縁のレベルでしょう。

 そういう例えを引き合いに出して、島津先生の技術を褒めるということは、自分の先生はこういうことを知っているし!出来るぞ!でも、お前のところは出来ないだろ!と言い出し、無用の迷惑をかける愚かな弟子の師匠自慢のように見えます。テレビの人<島津先生―という主張をしかねないこの文章は相当まずいものだと思いましたね。

 あと、喧嘩屋をリングにあげたら弱いなんて当たり前でしょう?「喧嘩という構造を持った競技」・喧嘩ルールに親しんだ人間・選手を、見かけ上は似ていても、全く異なるリング上のMMAにあげて戦わせて、「はい、お前ら弱い」なんて、実践する「競技」の構造・ルールが初めから違うのですから、負けるに決まってるじゃないですか?

 空手家と柔道家を戦わせます!さあどちらが強いのか!!ただし空手ルールでやります。柔道家ボロ負け、柔道って弱いね!って言ってるようなものです。はっきり言って失礼ですし、前提がそもそもおかしい。認識能力・理解力が乏しいと言わざるをえない論理です。

 格闘家の舞台やルールに上げといて、そのルール・前提で実力を発揮出来ないのなら、ハイ弱いなんていうのは卑怯な態度です。反則というものがなく、目つき・金的・頭突きなどが許される。衣服を着ている、凶器を使う(下手したら薬品を使う)、一対多、つまり戦う双方が事前に条件をフェアなものに整えない、フィールド(戦う場所)が制限されていない…。いくらでも挙げられますけど、表面上は似ていても持っている構造は、全く違う。それをもってして、こういう風に書くのは喧嘩屋という人がいるとすらなら、その道を生きてきて研鑽を積んだその人にとって失礼でしょう(社会的に賞賛される存在ではないにしても)。

 まあ、喧嘩のプロという存在がいるとしたら、喧嘩の構造・力学などを解き明かさずに、プロでさえ舐めきってくれるのなら、これほど有り難いことはないので、むしろ大歓迎なんでしょうけどね。まあ、今回の話はかなり平さんに「?」と感じる回でしたね。

 ※そうそう、あとから気づきましたが、そういえばドーピングなんていうのも競技以外ならありですね。ボクシングだとヘビー級あたりで練習しないで世界チャンピオンになったとか、そういう人間もいますね。生まれもって才能を持った強い人間というのは実在します。本当にごくわずかな実例しかありませんが。素人が格闘技の玄人に才能だけで勝つという話は珍しくないんですけどねぇ。
 武術の開祖とかって、大抵そういう生まれもって強いバケモノみたいなもんで、そういう人だから伝説的な強さを発揮して流儀を後に伝えるわけですね。まあその開祖の流儀を継承しているから、それをもってして自分は強いんだと実証もせずに自惚れるのは言うまでもなく論外ですけどね。

 残りのメモ―すべての骨格・関節を使い切ることで、ものすごいパワーが生まれる。人間の骨を砕くような力がチンパンジーにあるのは、それらを使いこなしているから。関節がゆるむと気が流れ、筋が自由に動く。

 
 護身の廣木さん、今度は元相撲経験者の喧嘩屋とのスパー。相撲だったら投げるなんてまず無理だったが、空手の組手だったために倒すことができたと。腕折りで有名な喧嘩屋で、それは相撲の技からくるんだと。とったりでしょうか?「腕封じ」という技法を重視していて、相手を無力化していくという発想は喧嘩ならではでしょうか?ホーリーランドでも似たようなのがありましたしね。


 黒田さんの数学者の話、いいですね。数学にも極意があって、16世紀にそれが既にもうあると。しかしその話をすると専門家でもまるでついてこれないとのこと。数学にも極意の以心伝心があると。


 天野さん、時代劇を見て気づいた歩きの話。現代風の歩き方は靴によるもの、草鞋でやると、踵の部分がすぐに磨り減って使えなくなる。踵着地、つま先で蹴りだすというのは靴の歩き方。犬・猫は踵をつかない。

 つま先=敏感・踵=鈍い、踵は止まる用に発達したもの…?這いはつま先から行う。悪くてもつま先・踵同時に着地する。踵から着地してはダメ。足首・膝などの関節が伸びきってダメージを与えてしまうと。

 普通、つま先が止まるようで、踵が出力に使うところですよね?踵というか、脛骨直下に重心を落として、そのエネルギーを踵で活用していくという構造ですが。四足の生き物の場合、そもそも普段「立っていない」ですよね。ホワイトベースみたいにもしくはスフィンクスみたいな座り方をするか、寝っ転がるわけで足の使い方が根本的に異なる気がしますが。

 這いという太氣拳独特の歩法のためにはすり足というか、つま先から接地していくということなのではないでしょうかね?BFS・AFSという話で言うと、AFSだから踵を利用する歩法である必要がないということなんでしょうか?


 松原さん、受ける時は手首を柔らかく使って、力を出す時は手首を固定する。ギア・チェンジ、柔らかい&固定は、ローギアとハイギアの関係に相当する。合気上げの形と弧拳の形は手首の可動域の限界に自然となるので、意識しなくても固まる。普通の突きだと、意識して手首を固めないと力が伝わらないがこの二つの形はその必要がないと。

 この二つの形で手を上げて、落とす。それで手首のトレーニングになると。推手は手首の入・脱そのものと。首は手首・足首とつながっている。首をもみ返しを起こさずにゆるめられると。