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空手・合気・少林寺(高岡英夫メモ⑩)

空手・合気・少林寺―その徹底比較技術論/恵雅堂出版

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 空手・合気・少林寺という比較技術論二冊のメモです。ややこしい用語がついていけなくて「ウッ」となるところもありますが、氏のBFSとAFSという論理から分析した技術体系論は非常に面白いですね。一般書みたいに「空手と少林寺拳法はどう違うの?」「それはね、こういう違いがあるんだよー」「じゃあ合気道とは?」とか書いたら物凄い売れそうなんですけどね。格闘技の優劣、技術論を論じたものって殆ど無いですし。誰か高弟にインタビューさせて書き直したら人気でそうですけどね。

 合気道少林寺に手首を掴まれた時の技があり、相似したように見えるが、これは表面上のみで同じ技法ではない。宗道臣合気道の手首に対する批判は、エティミック・表面だけ見て、その本義を理解せずにされたもの。合気道は手首を掴まれつつある状態で技をかける。手首を掴まれたらもう負けという設定でやっている。少林寺は掴まれてからの技法であり、一見似ていても実情は異なる。

 合気道は気の理論など、達人芸を作り出すことに焦点をおいているが、少林寺にそれはない(もちろん名人芸を行う人物がいないわけではない、それを構造として積極的に創りだそう、前面に出そうとしていないということ)。※そういえば、飛龍会・胴体力の伊藤さんは、少林寺の人でしたね。伊藤さんの少林寺技法とか見たかったですけど、映像に残ってないのでしょうか?少林寺的な発想に基づいたボディーワークと言えるのでしょうかね?伊藤さんの理論というのは。

 少林寺の技を掛け合う距離は非常に近い、パーソナルスペースで行われる。教えあい、やりとりを通じて親愛の感情が育まれる。合気の間合いは遠いためにそのような効果はない。この点については少林寺と真逆の効果を持つ。

 BFS・AFS、着地前突とその場・着地突。<ながら~>と<して~>の違い。移動しながら突き・蹴りなどの技法を繰り出す競技体系なのか、それともその場や着地してから突き・蹴りなどを行うそれなのか―で格闘技の体系は大別される。

 少林寺・日拳・ボクシングはAFS。このBFSとAFSの違い、突きの間合いのそれを考慮に入れないパンチ力測定は意味がない。AFS系の空手は突きの構えが低い。ボクシング・少林寺は同じAFSでも拳が高いところにある。※この構えの違いは実戦空手系に顔面攻撃がないというだけにとどまるのでしょうか?

 体系の違うAFSとBFSが戦うなら、技量の明らかな違いがないかぎり、最初の間合いが全てになる。BFSが間合いを確保して飛び込んで有効打を浴びせるか、それともAFSが間合いを潰して有効な技を出させない範囲内に間合いを持ち込んで、そこから叩くか投げるか―って感じでしょうね。

 その場で突くのは、身体を順に連動させてエネルギーをつたえる<フレキシング>というものによって行われる。連打させればさせるほど、下半身の連動は失われ、最終的には手突きになる。移動突は慣性を利用するために体全身を固める<ブロッキング>で行う。その質量を突きの威力に転化する。

 試合に強くなるなら自由組手が必要、合気道少林寺でも同じ。極真はBFSとAFSが混在している。顔面をつかないルール上、AFSになりやすいし、肉のヨロイはブロッキングを鍛えることになり、BFSの要素を鍛えることになる。

 少林寺は柔法・投技があるために、AFSにならざるを得ない。並立して空手と柔道をやるようなのを<混合>、南郷氏のようなものを<共合>、少林寺のように一つの技法に組み立てられたものを<融合>とする。投技のために自ずとAFSの体系に制約されてしまったといえる。このような制約を嫌って、南郷氏は<共合>路線を採用した。

 AFSに対向するWAFSという技法しかないので、BFSには自ずと対処ができない。実験でBFSが額を切って、AFSが口を切ってしまったことがあった。これは成立の異なる運動によるもの。BFSを投げることは体系上不可能。

 これを克服するためにWBFS(対BFSの技法)を取り入れるとすると、少林寺合気道にならざるを得ない合気道はBFSを念頭に組み立てられているから。合気道の写真を見ると遠間から飛び込んで面打ち、手首つかみという不合理な取り方をしているが、それはこういうBFSに対処するという前提で構築されているが故。

 同じことは少林寺にも言える。AFSに対処をするために合気道が方法を考えるとするなら、胸に卍をつけない少林寺にならざるを得ないことになる(要するに少林寺拳法技法を採用しない限りそれは出来ないということになる)。

 合気道はBFS・遠間を前提に体系が出来ているので、BFSの空手はやりやすいことこの上ない。整合的競争が行われる。アリ・猪木戦のようなものは非整合的競争と言える。

 BFSの空手が、その対策を念頭に置いている合気道より上回るには、ブロッキングの度合いによる。身体を固めて威力を増した技により、相手の返し技、対処に来た技を受けずに攻撃を加えられれば空手が勝つ。合気はその受けをこなすことで勝利するという構造。

 ※ブロッキングの技術によって相手の返し技をはねのけながら攻撃を与えるということなのでしょうが、先手は空手家サイドに有るわけでフェイント技法、どこを攻撃してくるかわからない、ごまかす技法への対処というのは問題ないのでしょうかね?相手が左右の突き、顔面・腹で計4つ、同じく蹴りでは左右に加えて更に足払いもあります、んで頭突きとかも考えると対処するのは相当困難な気がするのですが。フェイント=間合いが詰まる=威力が落ちる、ので一撃は耐えられるのでその隙に投げる・極めるとかなんでしょうか?

 スキーを例にしたブロッキング・フリーイングがいまいちよく理解できない…。フリーイング、沈み込み→抜重、伸び上がり、ジャンプなどが補助手段であると。水鳥の足がフリーイングと言うのは以前の本に前述したとおりと。山スキーと競技スキーは、実戦派と競技(試合)派の関係に似ている。

 競技故に、ブロッキングがおろそかになっている空手の流派も増えている。アンチシステムとして、「腕つかみ専門家に」腕を掴まれたらどうする?とより難しい状況・強い相手を念頭に練習システムを構築できるかどうかが、異なる格闘技に勝つポイント。

 植芝・宗といった天才のシステムを分析して、それを乗り越えないとあぐらをかいていると言われても仕方がない。 

 KO式の競技>ポイント制の競技>試合のない合気・少林寺の順でレフよりもラフの傾向が現れる。

 相撲力の対義語としてクソ力・馬鹿力が使われなくなったのと、ウェイトトレーニングの流行は一致している。故に晩年多少のレフパワーを身につけた千代の富士が53連勝という事もできるようになってしまう。「呼吸力」という明確な言葉がある合気道は、レフパワーの認識と養成がされやすい傾向にある。しかしラフパワーを否定してレフパワーを付けること自体をも否定しては意味がない、それでは呼吸力の養成はできない。

 相撲力や勁と言った概念がない、空手・少林寺。それは骨格筋の運動リズムと呼吸のリズムが一致しにくいことによる。他に幾つか要因があるが、ここでは語られていない。武器を使うものでは、リズムが自ずと適正範囲に収まるので鍛えられるが、空手・少林寺ではそのように一致させる理由がない。

 合気・少林寺のような試合をしない競技(試合=対抗的運動系)を並行的運動系という。試合・競争ではないから、協調を念頭に置く。自分の骨格・筋肉との協調だけでなく、相手の協調をすることで技をかけることを学ぶ。シンクロを学ぶ、ダンスやシンクロナイズドスイミングと同じ構造を持つ。故に、相手がそれを外してくるという対抗策も練習体型に入れなくてはならないが、ほとんどのところはそれをやっていない。

空手・合気・少林寺 (続)/恵雅堂出版

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 下半身をL/NRM、どちらで使うか?という重要なテーマが語られるのですが、
比較技術論とその身体の使い方の話が、うまくマッチして一冊の本として構成されていないような気がします。一貫性がない、まとまりがないイメージ。無論、あるんですが、うまーく編集されていない。一冊の本として読みにくいなという気がしました。<WーBFS>とかいちいちメモったり、前著を引っぱり出さないと理解できないでしょう。単語・用語を最初か最後にしっかりまとめておくくらいのことはすべきではないでしょうか?

 トランスなんとかとか、もう理解するの諦めました。まあ1回読んだだけで理解するのは至難の技ですね。当然、ここを読んだだけでは全くわからないので、あんまり拙メモを読んでもしょうがないです(^ ^;)

 明確にBFSかAFSか念頭に置いて練習しなければ、パフォーマンスの向上は出来ない。

 養神館はAFS的。呼吸力を要請する統合保存性が高い。合気会ではあえて排除してるのではなく、失われている。

 力学的呼吸力、非力学的呼吸力がある。レフパワーを要請するためのメソレフパワーをいかに作るかということが流派にとってのポイント。

 少林寺なら仏教用語の法力(ほうりき)にも通じる「法力(ほうりょく)」というのがベスト。

 空手が呼吸力を採用すれば体系の変化は否めない。

 <シンクロ操作権>を解放しないと、同調を無効化して相手が防御をしたうえで技をかける技術を高めなるということをしないと、合気道の発展はない。

 AFSとBFSを同時学習することは難しいが出来ないことではない。体系の違いがあることを認識すれば、体系に浸りきった世界から抜けだす必要性を感じるはずと。同じ直突きでも体系はまるで異なる。それをどう使いこなすか、あるいはそれでどう戦うかという話になると。

 BFS系の空手が前屈立ちを排除して合気道を取り入れるのは至難の業。前屈立ちと構造が異なる裏三角立ち。裏三角は外旋と内転、四股立ちは外旋と外転。大腿骨の外旋を利用した内・外転運動をLRM・lateral rotated movementという。相撲では上手投げ・すくい投げ。合気道では入り身投げ四方投げ小手返しなどほとんどがそう。若乃花塩田剛三がこの名人。

 千代の富士の成長はLRMの構造化。これにより心身の基底でもあるMINも変わってくる。

 空手の前屈・内歩・三戦立ちはN・MRM=not rotatedとmedial中旋と内旋。投げの格軸効果についてLRMのほうがはるかに優れている。LRMが受動的な前進する力を発揮するのに優れていて、MRMは能動的な力を発揮するのに優れている。だから空手はMRMと。千代の富士はLRMで両動的な前方力を使い出したと。

 LRMは必ずAFS。しかしAFSはLRMばかりではなく、NもMRMも含むと。そしてBFSはNRMであり、MRMは全てAFSと。

 後屈でBFSをするのは前屈の3倍努力がいる。それによるメリットがあるとありますが、どういうものなんでしょうか?事実上不可能と書いてありますが、それを成し遂げた人が知人にいるとか。

 実践性は汎用性がどれだけあるか、また応用がどれだけ効くか。そしてそれに対する変用をどうするかという話にかかわる。達人は汎用処理の比率が高いが変用をしないということはない。割合の問題。栃錦などは変用に優れていたと。

 どれだけ優れていても格定のみということはありえない。塩田のような達人でも安定の要素がかならずある。LRMを高いレベルで実現した塩田に対し、まるで実現しなかった宗道臣という対極の関係。それがないのに達人と言われた宗の上肢の技術のレベルの高さ。

 ※面打ちの高田さんだったか?メモろうと思った人の名を忘れてしまった…orz