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極意と人間―極意学入門(高岡英夫メモ⑨)

極意と人間―極意学入門/BABジャパン

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 96/7~98/9の秘伝の記事の加筆・再編集。アルペンスキーのトンバと国井善弥翁を比較すると僅かに国井翁が上回る。スポーツのレベルはそれほど高い。武術界で中の上レベルの人のDSを見ると、まるで出来ていないことが分かる。江戸時代の130人のDSを見ると、国井・植芝・佐川レベルを超えている。これほどの人物が30年技術を維持していると考えて、江戸時代の一年にはこのようなレベルの存在が15人は必ず存在したことになる。実際に測定しえた人物だけだから、およそその10倍は、優れた達人がいたと推定できる。

 男谷精一郎は『天才の証明』では出てこなかったはずですが、今回出てきていますね。なんか取り上げたい事情が出てきたのでしょうか?21世紀はDS理論によって還元的爆発を起こすと書いてあります。序章のタイトル自体、ディレクトシステムの時代が始まる―ですからね。

 スポーツ界での指導を仰ぐ人も最近ではいませんし、その路線はもう終わってしまったのでしょうか?失敗したのか、スポーツ選手を弟子に取る・指導するのは止めたのか?(クラゴンさんいますけど、英語で本も出したし欧州とかモータースポーツにシフトしたのか?)個人・団体十数名が比較DSの指導を受けているとありますが、匿名での弟子がどれだけいるのか気になりますね。DSトレーニング後しっかり育っている武道家がいるみたいですが、どこかの武道団体に所属していて、立場上指導を仰いでいることを開かせない弟子がいてもおかしくはないです。ただ、それが一体どれほどの数になるのかが問題ですよね

 宮田氏との立ち会い(?)でみせた頭上の剣を無構えから跳ね上げるのは、「無構無影」と名づけている。リバースで相手の意を捉え、それすら力に利用する。※意を超えるものがないと打ち破れないとしたらどうしたらいいんでしょうね?この技法も極意の中位段階にすぎないと。

 全てはDSで説明がつく、理論DS・作品DSという言葉で説明されていますが、曲など人の心を感動させるには、その曲を弾くのに特定のDSを自身で再現して弾かないといけない。あるいは相手の身体・意識にそのような影響を呼び起こすものでないと本当の芸術にならないということなんでしょうか。実際の人が持つ身体意識と、理論・作品DSの区別というのは多分殆どの人がわからないんじゃないでしょうか?そういう質問が来たと書いてありますしね。

 手塚治虫も作曲家シューマンもフリーフルクラム。それが故優れた作品を残せると。そのフリーフルクラムのタイプが違うと、正直DSみても軸と丹田以外よくわからないので、お互いのフリーフルクラムのどこがどうちがうのか説明して欲しいですね。手塚治虫は頭に前後からワ~っと来てる、シューマンは股にいくつもワ~っと来てるものがあるなぁ―くらいしかわかりませんからね。DS図みても細かいことはさっぱりわかりませんね、解説されないと。

 コンピューターには身体がない、故に身体意識がない。身体意識がない以上心が発生することはない。心がないコンピューターに人を感動させるような作品を作ることは出来ない。

 以前漫画のキャラクターに、存在しない人間に身体意識があるとなって「?」となりましたが、作品DSなんですね。漫画家が自己の小我から離れて、無意識に大我でDSの運動に脳活動を任せきった時素晴らしい作品は生まれると。自己の意志・意図を超えて生まれるがゆえに、キャラが勝手に動き出すことになると。優れた活動はDSにまかせきることだから武道家の運動も芸術活動も同じだと。

 ニドさんが美空ひばりのDSを再現してピアノを引いたら、聴衆には美空ひばりの歌が聞こえてきたと。へぇ。

 アトランタでのマラソンの有森裕子の不思議な走りはイン・アウト両方使ったダブルジンブレイド。トレーナー白石宏氏を通じて、その教えが伝わっていたのか?だとしたら面白い話ですね。

 人DSを比較してみると流派・流儀の本質、意図するところが分かる。植芝・塩田のDSは塩田が参考にしたと言ってもかなり違う。植芝の宗教性は塩谷はまるでないなど興味深い現象が現れていると。西尾昭二氏のDSは二人と比較してまるで出来ていない段階。

 我々に近い存在ということでフォローしていますが、こういうこと書かれた日にゃ合気会の人でしたっけ?その人達がブチ切れて反発するのもやむなしじゃないでしょうかね?無論、塩田・植芝に近づきたい!と興味をもつ人も多々いるでしょうが。

 p93~95に、世界的実力を誇った格闘家、若きスーパースターのDSが記されていますが、誰でしょうね?これ?双葉山みたいな体の中ににょろにょろしたものがある人って誰かいたっけか?スーパースターはジョーダンでもイチローでもなさそうだし、ならばタイガーウッズか?クロススライサーあるからスキー系、インゲマル・ステンマルクか?年代的にはジダンとかなのかしら?

 センターが銀河、宇宙まで意識が発達すると、細胞・細胞内の構造まで連結して意識形成を行う。大我の段階に至る。イチローのセンターの発達は小我と大我の中間段階、中我状態と。ここまで行くとあらゆることに気がついているがそれが気にならない境地になると。確かに最近昔のくだらないことにとらわれることがあるので、そういう意味で小我丸出しですね…。人間良くない時は、くだらないことにとらわれ、ウヨウヨクヨクヨしますからね。座禅もアメリカ流成功哲学も、丹田呼吸法も右脳開発もイチローのようなセンターには及ばない。あらゆる心法は小我を少しでも打破しようという試み。

 妊娠するとホルモンの影響で、ドテッとボタッとした体になり、センターが通る。脱力統一体が出来る。妊婦も羊水の中の胎児も脱力統一体となると。赤ん坊をうまく抱くためには赤ん坊と同じくらいゆるゆるにゆるんでいる必要がある。赤ん坊をいい環境で受容する大人にはセンターが通る。

 妊婦は見事なセンター・ベスト、そしてフリーフルクラムを可能にする開側芯・フリーポール・腰船、剣聖レベルのDSになる。無論それら全てを胎内での子育てに使っている故に、武道及び他の芸事に活かされることはない。妊婦も子供もDSを見れば大天才と言える。

 ※―ということは、妊娠すれば優れたDSにより子供を作るので、発育に何らかの問題があるのはDS形成に問題が起こるが故ということでしょうか?そんな疑問を思ったらやはり末尾にDSに問題が起こると流産云々が起こると書いてありました。であれば、正しい出産のためにするDSトレーニング的なもの発表したほうがいいんじゃないですかね?

 素晴らしいDSを誇った幼児もスティフな記号化された社会環境によって、その天才性・フリー度を喪失していく。人間というものは集団となるとそのフリー度を落とす、特殊な集団以外スティフクラムがないと機能しない。そもそもスティフクラムな植物や物質を相手にする農業はフリーな動物を相手にする狩猟と比べてスティフにならざるを得ない。名人的な農工業生産をする人はフリーだった。

 ※そういや、植物は言うまでもなく動かないわけですからスティフですよね。なのにセンターは発達しているということなんですかね?

 弥生人のDSを見るに平和的なイメージとは違い、農業・戦闘・情報収集・神秘的能力を備えていたことが分かる。DSは時代がたつほど個体間の差異が増える、産業革命以後劣化が進む。フリーとセンターは相関関係にある。センターの劣化よりもフリーフルクラムの劣化・スティフ化の方が早かった。今はフリーフルクラムどころか、センターすら維持できない時代ということですかね。

 引退して5~10年経っている金子裕之氏の奇跡的な滑り。沈身で浮身が、浮身で沈身がかかる理想的な状態。バブルとブームが終わって、スキーに本物の時代が来る。鍛えたセンターでスキー界を導く事が可能になると。

 名トレーナー有本政治氏を頼りに高岡門下へ来た陸川章。センターを鍛えてリバースシュートを身につけて当時のフリースロー記録を5%上回る記録を更新したと。センター系四力、天からの吊力・抑力と、地からの反力と落力。その四つを生み出す構造がジョーダンには見事に備わっていると。何を意味するのかよくわからないですね。純粋な天と地からのエネルギーとその跳ね返ってくるエネルギーのことなんでしょうかね?その四力を使った腕が全く動かない剣の斬り下ろし。見ていた宮田氏はナンノコッチャ分からない目にも留まらぬ動きだったと。いわく宇宙を両断するとのこと。

 九五年ころから天才の世界に入り始めたニド氏。コンサートで喝采を浴びたというのはいいのですが天才的な演奏をしながらも、世の中の評判がいまいちわからないのはどうなんでしょうか?専門家のこんな演奏は凡人には決して出来ない!天才だ!みたいな評価がもっとみたいんですけどね。高岡さんの仲間であり友人であるという境地のピアニストはどんな評価を受けているのか聞いてみたいですから。

 センターと丹田の出自は異なる。センターが直立・二足歩行として、丹田はどうやって出てきたんでしょうね?地球の中心から天に向かう「芯気」を捉えてこそのセンター。

 池田和子選手の前に山田純子選手という別の選手の指導をしていた。チーム方針から彼女が外れて池田選手の指導に。池田氏の名前を何時頃からか伏せるようになりましたが、本人というより所属からNGが出たんでしょうかね?まあ、ジャーナリストとかが騒ぎ立てたら問題になりそうですもんね。宇城師範の教えを受けた岡田監督も「大丈夫か?」て記事にされましたし。

 天才デボラ・コンバニョーニは特別なことをしなくても成長していく。一回の「イイ!」と思った感覚をつかんでものにすることが出来る。コーチがもう何も教えられず、彼女の滑りを見て新しいセオリーを考えようとする段階に入ってる。独創はフリーの世界にいる人間にのみ起こる。特に教えなくても彼女にスライサーが発達していったのはそのためと。池田選手いわく、センターが立つと、勝手にクロスセンターが振り子のように運動しだしてあとは全く関係なくなるとのこと。今後、史上最高選手、フレニー・シュナイダーを超えられると書いてましたが、そのようなことがなかったのでしょうね。そういったところも関係してくるんでしょうか?

 フリーとスティフは世界を峻別する大きな壁。フォームは記号的学習になる。フリーの人間にフォーム学習は存在しない。創造的内発的学習が起こる。動けば技になるはまさにフリーの人間を表した言葉。スティフな人間がジョーダンのようなフリーの真似をすると無残な結果になって失敗に終わる。センターこそ決定的重要なディレクター、フリーの世界を可能にする基本。

 黒田道場の受け身はフリーでないと出来ない。スティフだとそもそも受け身をしようとすることすら困難。

 記号操作の戯れと拘束。記号を増やしてそれに従わせる快感に浸るのは隠微

で陰湿な楽しみ。しかし本人はそのことに気づかない。Nidoさんのセルゲイ・ドレンスキー教授との衝突が書いてありますが、世界でかのような指導法が主流を占めている現状であれば、彼女のピアノが認められることはないということなのですかね?

 高田には作戦がなかった。作戦を一貫して実行することが重要だ。そのように言いながら、私には作戦は必要ないというヒクソンの一見矛盾した言葉は、本人がフリー=無心の世界の住人であるがゆえ。有心の高田には作戦が必要になる。

 佐川・王のDSを合わせて木刀振ったら爆発音がして折れるとはこの本でしたね。居合の芹澤英昭氏が目撃しているとのこと。どんな感じだったか聞いてみたいですねぇ。

 身体性を磨かずして真の悟り、真理への到達なし。

 塩田・佐川・王は全身の細胞が笑っている。笑うと「ゆる」の相関性気になりますね、humorのDSとゆるのDSの相似というのがありましたが、笑うとふわっと身体に変化が起きますしね。細胞を緩ませるには笑うのがいいのかもしれません。佐川はきゆる・ほゆる・ぞゆる3つとも優れていたが、塩田は相対的にぞゆるが進んでいなかった。それこそが比較的短命の要因。各器官毎に1つずつゆるをかけていく。脳の一部位毎に、最終的には細胞一つ一つに。「いゆる」(胃)をやると全身のぜゆるよりも全身のリラクゼーションになるという効果がある。三つのどれをやっても他に影響がある。ただし偏ってやれば当然バランスが崩れる。

 塩田は小腸の意識化が進んでいた。長生きすればもっと進んだだろうと。上腹部に発ガン性のものがある。佐川は小腸・肝臓・腎臓・胃・膵臓、特に肝臓がすごかった。筋コントロールならどんなにうまくとも武術家は察知できる。これほど臓器を操れば、相手に察知することは不可能だっただろうと。

 末尾に坂本龍一が訪ねてきた話と、妊婦が流産する時DS形成に問題があるという話があります。興味を持って話を聞きに来た、トレーニングを見学したという坂本さんはどう感じたんでしょうね?取り入れようと思ったのか?ふーん程度で終わったのか?そういえばニドさんの演奏を坂本さんは聞いて絶賛したりしなかったんですかね?有名な坂本さんが絶賛でもすれば、わかりやすいのですがね。

 しかし、この本でもないとは、もうわからなくなってきましたね―。多分、この本に写真で見る限り、幕末の力士のDSが今の横綱レベル云々の話が書いてあると思ったのですが…。それとも昔読んだ甲野先生の本の話とごっちゃになっているのか?再販、第二版で内容が違うとか、加筆されてるとかなのか…?

 まあいずれにせよ、今から15年以上前には、弟子を達人にする気マンマンちゃんな時期があった。今では天才は後天的に育てられると書いてはあっても、いくらでも、そこまで何人でもぽんぽん輩出できるみたいなスタンスは退いていますね。高岡さんの指導を匿名で受けた武術家などは、高岡さんが死んでしばらく経ったくらいにでもならないと名前を明かしてはくれないんでしょうかねぇ。そこら辺気になりますよねぇ。