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極意化の時代―高岡英夫の極意要談2(メモ⑧)

 

 

極意化の時代―高岡英夫の極意要談〈2〉

極意化の時代―高岡英夫の極意要談〈2〉

 

  ウインドサーフィン・ハングライダー・スキーの中から、経験なしで素人から一気にマスターするという実験をする。武術・武道と関係無いものをセレクト。多くのスポーツ・器械体操も経験したために、それと無縁な雪・空・水関係しかないと。そして水泳も経験があってダメ、ウインドサーフィンでもよかったが、競技人口の多さからスキーを選んだ。ハングライダーもあったが、空だけで条件が相対的に優しいのでパスと。

 最初、すっころんで女の子に「何このオッサン!」と罵声を浴びたというエピソードが面白いですね(^ ^;)。

 

 「無心」の性質は人によって異なる、下丹田でもセンターでもありえる。

 仏陀の真理を理解するにはDSを理解すること、教典・解釈書、学説体系も不要(マジですかね…?では誰か宗教家に是非DSトレーニングさせて身につけさせて欲しいところです)。

 一日十時間ピアノを弾く内田光子氏。写真を見ると、ころぞ芸術家!というような印象深い顔をなさってますね。取り組みは素晴らしいがDS理解に達せられるか!?とのこと。ググったら、ロバート・クーパーの奥さんなんですね。初めて知りました。

 農業での極意を体現するDSなるものがあると。どんなもんなんでしょうか?

 

○梅津貴昶―手を動かしたら、それが円となって足元に帰ってこないといけないという。指から先は円になって自分に帰ってこないといけない。円が三角になっていると注意される。行って帰ってこないといけない。下だけだと沈んでしまう、上に抜いてやる。オペラ歌手デル・モナコは足下に声が帰ってこないと次の声が出ないという。

 ヨガの屍のポーズで瞑想状態に入った話。無心ではなくいろんなことを考えていた。雑念だらけだが、それは顕在意識ではなく潜在意識の思考だったと。

 

○宮崎正裕―宮崎さん スポーツチャンバラという自由性の高いスポーツがある。サッカーをするとその後テニスなどで大成しやすい。それはルールがギチギチしたスポーツでないから。拘束性・決まりごとの多いスポーツをやるのなら、型にはまらない自由な動きをやっておくことは大事だと。

 土踏まずはタメない動きをする所。タメて開放という動きをしない、沈んで一気に動く。

 

○古沢厳―昔のヴァイオリン演奏は肩・首で固定しなかった。余計な筋肉を使ってしまえば固まって当然リラックスしたいい演奏はできないと。

 

三瓶啓二―聞いたことあると思ったら最近秘伝で連載していた人ですね。顔の写真が今とかなり違うので気付かなかったですね。身体を潰していく。動けないまで鍛錬して初めて普段使ってない部分が目覚めて動きの質が向上していくという話。大山倍達氏は組織を動かすことに集中したことで、身体意識が衰えていった。もしそうでなければ修行に専念できてもっと筋肉も落としていって向上しただろうという話。うーんやっぱり筋肉は邪魔なのか?高岡さんは涙がでそうになると言うと言いすぎだが、そういう感じがすると。

 

○白石宏―言語系学習のリスク。ジョーダンは誰かに教わったのではなく、自分で見た動きを反復練習で作り上げていった。当時セオリーは最高点でシュートを打つ。小さい時にすでに持ちながらタイミングをずらしてシュートを打つということをやっていた。セオリーは既存の選手ありき、新記録を目指す選手にセオリーは通用しない。最先端のトップアスリートは驚くほどいろんな試みをしている。フォーマットは意味がない。江戸時代の剣術家も同じ、観て見様見真似でやって、さらに試行錯誤・独創を積み重ねていった。

 盲目の鍼の先生に注目しすぎて顔を思いっきり近づけて先生の指に鼻があたってしまったとか。それくらい集中・熱中して観察したが、今の人にそういう能力が欠けている気がすると。あれもこれもと教えてしまうと、このような見取る能力・技術が育たなくなる。感動する能力が必要。

 マイケル・ジョーダンは器用・運動神経がいいという人ではない。DSをつかむのが旨い人。では何故野球ではつかめなかったのか?バスケが自由型で、野球が制約型のスポーツだからでしょうか?もしくはバスケで掴んだ、構築したDSが野球でマイナスに作用したのか?王向斎が中丹田を一度消してさらに重性のものを作り上げたという話がありましたが、それは相当難しいことというように、巨大な身体意識が却ってマイナスだったんでしょうかね?あるいはアダプターのように身体意識をバスケから野球用に応用する技術、アダプターテクニックがなかったということなのでしょうか?

 若いころとてつもない動き、跳躍などは出来てもそれをコントロールすることが出来なかった。これは江戸時代の剣術家のプロセスと同じで、まず吹っ飛ぶ・崩れる・キリキリ舞いする動きをして、それからコントロールしていくという段階を踏むもの。他者をキリキリ舞いさせようという格闘技の発想とは異なる。

 

○宮田和宏―何度もこの話を見ているので特になし。膝と腰を通るリバースはそこを滑落させ前へ進ませるものって書いたっけか?宮田さんを十年で武蔵にする、出来る!とこの時おっしゃってますが、果たして今出来ていらっしゃるんでしょうかね?宮田さんは。

 

 

 最後にヒクソンの話がありますね。対外試合、弟子と師匠が同じ条件でやるという真剣性が身体意識を発達させると。技は少ない、漫画みたいなありとあらゆる練習・技術練習をするとそれだけでパンクする。少ないものをみっちりやるべきと。

 打から組まで格闘技は6種類に分類できる。分類法が気になりますね。今の打撃系はタックルに対する競技体系になっていない。対処法すら組み込まれていないのが現状。タックルが来ると重心を後ろに反射で持って行ってしまう。それだとタックルに対処できない。重心は下か前にやらないと対処できないと。

 サッカーも格闘技もブラジルのレベルは日本の上、江戸と今の日本の中間にブラジルはある。ヒクソンは白井亨よりは劣ると。グレイシーとやれる団体がないと書いてありますが、そのあとすぐに総合ブームで追いつきましたよね。まあシウバみたいな打撃がブラジルではまた出てきましたが、これもやはりサッカーのような自由型と格闘技という技術要素が多い制約型の違いなんでしょうか。日本のある剣道関係者は技術は今のほうが上だと、恐るべき認識能力の低さ。

 明治維新で身体意識能力はがくっと衰えていった。図でハラの中に腸というのがありますが、同心円的に発展するものなんでしょうか?ハラは?

 日常の所作が大事。掃除で掃くのには難しい技術がいる。ホコリを出すために何回か一回叩くという動きが必要、中を感じながら叩くという柔術に繋がるものがある。インゲマル・ステンマルクのように重くて大変なスキー用具を音を立てずに静かに気付かれないように行動できなくてはならないと。

 

 アトピー・ダチョウ・クマDSがあるのですが、動物のDSを「身体意識」なのに人体図で表してしまうのはどうなのでしょうか?あと、病気のDS図というものがあるのであれば、いち早く発表して、アレルギーだったり病気持ちの人に悪性のそれを解消するために何をすればいいのかとか、本にした方がいいのでは?と思いますが…。悪性のものを解消すれば病気が治るというのであれば、そういうものが早く見たいのは己だけではないでしょうからねぇ。