別館、身体論・武術・スポーツのお部屋

身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい

高岡英夫著書メモ③

 再度読みなおしたやつメモ、第三弾。例によってテキトーなのでそれを念頭にどうぞ。

すべてはゆるむこと―高岡英夫は語る/総合法令出版

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高岡英夫は語るすべてはゆるむこと (小学館文庫)/小学館

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 有森選手のシューズが均等にする減っているという話で、左足はかかと側が少しすり減っているという話がこの本で出てきますね。あとタイで見た目は東洋人としかわからないのに、現地人は日本人の判別がすぐ出来た。なんで?と聞いたら現地人から日本人の歩き方が汚くてすぐわかるという話も。あと、欧の高級ブティックで日本人が来るとすぐわかるというのもありましたね。

 高岡さんの合気公開の話が出てきますが、それ以前は公開していなかったんですかね。いつ頃から高岡さんが語る合気というものが出来るようになっていたんでしょうかね。

 合気は「支点転動」、自分の動きの支点を移動させて相手の体幹にまで移す。結果合気をかけられた方は相手にあるはずの支点が相手の中にないので勝手に倒れる。バーベルを二人で支えていて片方がいなくなったのとおなじ。バーベルの先っぽを握っていてバランスを保とうとすればつま先を上げて腰を反らせて腕を上に引っ張り上げるしかない。この状態なら術者は腕を相手に逆らって上にあげようとしなくても相手の抵抗がなくなってるから簡単に上げられる。

 「体の合気」「指合気」、意識操作という術。相手の意識をコントロールすることで可能になる。相手の意識に殺意・敵意があるほどかけやすい。逆にそれが無いと出来ない。

 人は足から動く。足から動いていると上体がそれにつられて動くまでタイムラグが有る。ゆるゆるにゆるめて落下して必要な筋肉にだけドンと力を入れる。『意』『気』『体』の3つで人間は動く。意を発して、気を発してそれから体が動くというステップを人間は踏んでいる。『意』が発せられただけで、行動を十分に読み取れる。人間は意・気という情報を発している。表情はもう体の段階であると。受け手が固まっているとその意・気という情報を受け取れない。意を読み取って動くとフライングと言って認めない人もいる。しょうがないから相手の『体』の段階にあわせてリアクションしてやらないとわからないレベルの人もいると。へぇ~。

 道場行っては指導者の言うことが筋が取ってなくて、辞める。行ってはやめの繰り返し。高校1・2年のころは道場で一番強い日本トップクラスの選手と組手をしても技術で負けていたと。ただ二メートルくらい間を取って順突をして、相手にスパッと入れてしまう事ができたと。相手はもらってから反応するくらいで、やはりどうも違うと感じていたと。

 駅の階段でうさぎ跳びで登り降りしていた。友人曰くスキーの滑降みたいにサーッと降りていったと。普通の人の歩きよりも早かった。目の前の歩いている人を飛び越えるとか遊んでたと書いてありますが迷惑極まりないですなぁ(笑)。30歳の頃日本チャンピオンクラスの先輩を剣道で圧倒していたと。もうこの頃は試合技術に左右されずに完封できるようになったということでしょうか?

 34・5歳の頃、佐川幸義氏の写真を見て、それだ!と唸った。ゆるみきった氏の姿に勇気づけられたと。稽古していて「佐川先生ありがとうございます」という言葉が今でも自然に出てくるとのこと。

 人間の骨は本来つるつる滑るようになっている。それを無理やり筋肉で抑えこむようにしているから関節が固まる。すなわち全身が固まってしまう。骨の自由運動、関節のツルツルを抑えこまないことが「ゆる」むことか。

 楽天の星野さんも言ってましたけど、ストレスを受けると胃が赤くなって硬くなる。形が変わって立ってくる。本当に「腹が立つ」ということが現象として起こる。

 許容するというのは「許す」の他に「容れる」と書く。これは容れる器としての身体のことで、入れるような柔らかさが身体にないと「許容」できないということを意味している。固まった身体では「許容」できないと。生理的に嫌いというのは、身体が固まって生理的に許容できないという意味でもあると。

 本来人間に「記号的管理」は無理がある。学級崩壊は生物本来の自然な反応。子供は動物殺したり、植物を傷つけたりする。しかしそれを通じてダメだよ!などと教育していくのが本来のあり方。触れなければそれも出来ない。そういえば最近の子供は無視に触れないという話がありましたねぇ…。だって虫が昔のように周辺にいないですもんね…。

「身」をゆるめ「心」を放つ/サンマーク出版

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 「気」と「魂」の概念を初めて本格的に取り入れて書いたとのこと。『センター・軸・正中線』『丹田・肚・ストマック』ではあえてそれを排して書いたと。それがNGな人、厳密科学の人にまず受け入れられるようにそれを書いて、今回ようやくその領域に踏み込んだって感じでしょうか。

 明治の女性は月経をコントロールしていたというのはこの本だけだったかしら?どうだったかな?その話がありますね。

 体の外側を締め付けられる、拘束されるようなことでも苦しいのに、それが内部となればその苦しさは言うまでもない。老化、固まるということは身体内部の拘束であると。身体の内部も外部も固まって苦しくなると耐えられなくなる。不快感で爆発する、あるいは心が死んでしまう・不感症になるのはこれによる。人の痛みが感じられなくなって、誰でも良かったと自分の苦しみを爆発させ、他者を傷つける・殺してしまうという昨今の事件がまさにこれ。身体の固まり・拘束という悪しき現象が極まって現れた。

 ゆるんだ身体は深く物事を感じることが出来る。「古池や蛙飛び込む水の音」というのは素晴らしい身体から来た感性。「山路来て何やらゆかし菫草」というのも同じ。俳人という職業が成立するほど、感受性というのが社会的に高かった(感受性の重要さが認められていて武士・商人が弟子入りするほど)。

 固まった身体は脳の機能も低下させる。ゆるめることで脳の機能も高まると。意欲の低下・うつ病も身体の固まりにある。身体運動は全身の協調を伴って行われるものなのに、ウエイトは部分筋力の出力を行う。ウェイト「だけ」をやると間違った筋出力の学習となり、結果競技のパフォーマンスは落ちる。バスケットでは複雑なフォーメーション、あるいは柔軟な創造的なプレーが出来なくなる。

 東洋医学の「気」の概念。経絡があってそこを気が流れていると考える。が、気というのは身体の外、ありとあらゆるところに存在する。人間の意識も同じ。体の外側にも人間の意識は存在する。そのために意識の構造を成立させる必要性がある。意識を鍛えて形作って、その結果生まれた身体意識が気の導入を可能にする。

 ―こんなところですかね?「意」と「気」の関係性というのは?これまでの身体論、既存の身体論には「気」に注目があっても、「意」にはなかった。そしてその「意」を鍛えるための身体を「ゆる」めるという概念も足りていなかった。故にその重要性を訴える。という感じ、論理構造の主張でしょうかね。

 筋力トレーニングで身体意識が小さくなってしまい、気が流れなくなる。だからこそ筋力トレーニング・ウェイトは危険。

 ゆるを取り入れた鹿屋大の女子バスは準決勝の大事な場面でシュートを外しても選手、ベンチ、監督みんな笑っていた。笑ってごまかしたのではなく、許容する身体ができていたから。ジョーダンはゆるんでいたが、チームの他の選手はゆるんでいなかったからジョーダンは笑うことが出来なかった。他の選手も笑っていたらジョーダンも笑っただろうと。ゆるんだ身体から自然と笑いが生まれる。笑いは伝播し、お互いゆるめあう機能がある。そこで気の循環という好影響がさらに生まれる。

 筋肉はまずゆるませて新陳代謝を活発にさせてから鍛える。そうでないと硬くなり、新陳代謝機能が落ちる。ゆるませないでやってしまうとその分余計な努力が必要となり、ロスが生まれる。当然気力も消耗する。

 大腿ユッタリ開閉体操・肋骨モゾモゾ体操というのがありましたが、これいいですね。作業の合間に背中をゆるめるのにいいです。僧帽筋がありその奥に菱形筋がある。その更に奥に肋間筋があり、ここまでゆるめ切らないといけない。普通の人は僧帽筋を肩こりと感じているが、その奥まで固まってしまっている。

 人間の潜在意識を、上中下の三層構造で考えていますが、この上部構造(魂)はどういうものなのか?気になりますね。中部構造が視覚・聴覚で下部が体性感覚=身体意識です。

 人間の意識だって運動。感情も思考も刻々と変化するもの。つまり動くことによって成立するものなのだから、固まってたらその循環がスムーズに行かない。だからこそゆるんでいないといけない。身体も、身体意識も円滑に、グルングルン回り、ツルツル滑らないといけないと。

 丹田を鍛えるイメージは日本刀、ドロドロに溶かした鉄を鍛え上げていく。身体は鉄のようにどろどろにゆるめばゆるむほどいい。だが意識は正確無比でなければならない。それでも意識も「ゆるんだまま、鍛える」という状態にしないといけない。

 宇宙の外には膨大な気のエネルギーが存在する。身体意識はそれを導入する。地球表面には生命体としての「ガイアの気」、その下には重い物体の「重性の気」更に奥に熱性の「マグマの気」が存在する。そしてその下に地球の中心・地芯があり、「天性の気」がある。その膨大な天性のエネルギーがあってそれを優れた身体意識があれば受けることが出来る。地芯を超えて「下天」に至ると「上天」との間で気が回転運動を起こす。何光年、何万光年というレベルで起こるんだと。身体意識はかくも壮大な世界観を持つと。一般人にはまるで捉えきれない概念、話ですねぇ。下部構造である身体意識を鍛えてこそ、上部構造・魂というレベルがわかると。

 動物はセンターがある人間を恐れる。センターの存在、そこにある気の運動を感じ取る。

 会陰、女性だと膣にあたる。女性のほうが意識しやすいのでセンター形成に有利。小周天・大周天というのもセンターが出来てこそ気の循環が起こる。小周天というのは身体レベルでセンターが出来たところを意味する。

 「スーッ」と立とうとする。擬態語を使って言語野を使う。大きい建築物の高さを意識してそれを身体に移す。

 呼吸は腹式呼吸がいいというのは間違い。腹腰(ふくよう)呼吸が大事。腹と腰均等に呼吸して身体に空気を入れること。胸も胸背呼吸で均等に入れることがポイント。表と裏があって大事な両方を意識すべきなのに、表面一辺倒になってしまっている。戦後外交も本来表だった半島・中国大陸がいつの間にか「裏日本」になってしまい、米一辺倒になってしまっていると。

 上丹田はセンターのバックヤード。大抵の人は頭でっかちになって眉間の方、表側にズレている。だから首ゴロゴロ体操でずれた意識を背中をゆるめて意識をそちら側にずらして整えると。つぶやくことでアゴがゆるみ頚椎のポジションが良くなると。うつ伏せで背中をゆるめる方が個人的に気に入ってるんですけど、うつ伏せではなく仰向けを重視しているのはこの丹田のポジション故なんでしょうか?

 リバースで仲良く出来ると、気の循環で太陽・地球からエネルギーがもらえる。長男が脳脊髄膜炎で危篤状態になった時、リバースを周囲の人とかけてエネルギーをもらって与えた。そして治ったと。時に膨大な熱性のエネルギーは一命を取り留めるような奇跡を起こすと。あかちゃんに「あーん」とする時にリバースが生まれる。よく女性が恋人に「あーん」としたくなるのは、このリバースによるものなのでしょうかね?

 リバースは母性的、レーザーは父性的。どちらも交渉事に重要な身体意識。脚が速い陸上選手が、バスケやサッカーで活躍できないのは直線型のレーザーが発達していても、曲線型ができていないから。

 そうそう以前、カール・ルイスどこ行った?と書きましたが、この本でカール・ルイスは天才と改めて書かれていますね。それについて評価の変更はないようですね。ボルトとか出てきてやっぱルイスは大したことないわにはならないみたいです。

武道を読む (レクチャー 武道)/恵雅堂出版

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 武道を読む。社会には形を変えた「けんか」競争の要素が数多くある。極真空手を売り出す上でボクシングなどとの差異化を図る素面素小手は良かった。筋肉を防具として鍛えるというのも。

 武道の批判にはその暴力性が必ずついてくる。武道を評価する人は対照的にその非暴力性を評価する。

 ※今では想像つかないほど、武道団体がいかがわしいとか暴力的だ!という批判があり、それに対する懸念を取り払う努力というのが開祖の頭を占めるテーマだったんでしょうかね。やっぱり色んな武道が起こってくる当時はそれこそが重要だったという当時の空気があったんでしょうか。

 大山・極真空手への批判というのは一つには競技制度の不備からくるもの。芦原空手は実践性重視で、ごつごつぶつかるようなものを否定する要素が多いから極真空手のような競技化は不向き。競技をやりたいという会員の欲求にどう答えるか、合気道少林寺拳法のように競技を排除したほうが面白い。それには哲学や理論が必要。そういうのを嫌う感じの芦原さんにそれが出来るか?

 ケンカをやってきて、そのケンカ術が競技で活かせないから、よりケンカで活かせる技術こそ競い合うべきだと考えて極真空手から出た。

 喧嘩好きを集めて吸収して外に出ないように封じ込める機能として武道団体は存在した。そこで強さが認められてケンカ衝動が発散されるというプラス機能がある。ところがそのヒエラルキーの中でも落ちこぼれると外に向かって暴力が発露することがある。マイナスもまた当然存在すると。新体道の青木さんなどは、新体道をやればそういうことはないというけども、みんながみんな新体道をやって満足するかといえばそうではないから解決法にはならない(p62)。

 ケンカのためには<場に入る>訓練(p67)が必要。玄和会や忍術なんか多分それをきっちり自覚してやっているハズ。芦原空手は多分、「サバキ」中心でそれを自覚化してやっていない。ただ多人数がけというか連続して次から次に対処するという合気道のような練習をしているから、そこで<場に入る>訓練に繋がる。これを態の移行という。<日常態><非状態>とあって、その日常から素人と武道をやっている人間では違うし、さらに移行をさせるプロセスも上手い下手があるし、当然<非状態>に入ってからの違いは激しい。自然災害の時にどう対処をするのかという話を3.11の時に秘伝で確か書いていましたけど、そういう一連の危機管理とっさの判断という話は、この<非状態>・態の話だということでしょうかね。

 何日間か目をつぶって生活したことがある。今でもたまに一日くらいは目をつぶったまま生活すると(P72)。へぇ。

 気の感知力があって、目を見ないでも反応・対処が出来る。だとしても目はやはり重要。腕と目なら目を守る。相打ちという状況で、目を潰されると分かってもあえて潰されながら反撃を相手に当てて勝つという対応もある。昔日の武士や命のやりとりを拳銃以外でしていた人間にはそういう対応は日常問題で存在した(p78)。

 将来的にはBudolofy<武道学>の範疇にボクシングやフェンシングも含まれていく方向に進む。

 人間は<格闘的存在>あらゆるものに<バトル>の要素がある。歩きにだって食べることだってなんだって<バトル>の要素はあり、それが顔を出す。『夜と霧』のような極限状態で生き残る人は<バトル>要素が高い人。

 東大生の体力テストの数値が高くて教官が驚いたという話(p82)。受験と言うのものひとつのバトルであり、そこを勝ち抜いた彼らにはつよい意志力がある。だから目的・目標すらしっかりしてあれば、打ち込んで結果を残すことが出来る。意志力が問われるボディビルとボートが東大は強いと。今はどうなんでしょうかね?

 武道の訓練は、犯罪能力の向上にも繋がる(p87)。特に意識の操作能力というのは普遍的に応用が効いてしまう。本格的に人のためになる訓練というのは、真逆の人のためにならない能力も成長させてしまう。そのため<徳性的人格>をいかに鍛えるかという要素が問われる。※これは宗教にも言えるんじゃないですかね?宗教の人間が素晴らしい人物を輩出すると同時に悪い人間も同時に生む構造があるんじゃないでしょうか?

 <瓦重構造>、柔道を好きなものと嫌いなものでは、そこに暴力性と武道としての評価がまるで違う。必ず善悪の重なりがあって判断されるが、人によってどちらに注目して評価するかは異なる。

 <徳性的人格>をいかに磨いても、暴力性・危険性が消えることはありえない。必ずその危険因子は内在されている。その当たり前の現実をまずしっかり理解・認識すること。人間は重層的存在であって、柔道が関わるのは当然そのいくつかの層にすぎない。故に実践する人によってどういう結果が生まれるのかきっちり把握しておく必要がある。

 山下氏のオリンピックでの功績が評価されても、柔道をやっていた高校生のいじめとその反撃にあって死んだことという事実はあまり報道されない。こういうのは隠しては絶対にダメで、その危険性をしっかり理解して改善に取り組まないといけない。柔道でも空手でもそういう暴力事件は多いが、柔道は特に目立つ。では何故その要素があるのか?柔道という競技・体系・構造にそうしやすいものがあるのか、きっちり把握すべき。

 柔道は体をモノと捉える。接触とモノ化が剣道のような装備をつけるなどの手を踏むもの、めんどくさいステップを挟まに事で暴力へのハードルを下げる。同時に身体接触は交流を生む。触れ合いで豊かな性格を作る効果も当然ある。コインの裏表みたいなものですね。

 言葉の暴力、相手の間合いを外す。予想された適切なタイミングで答えないという暴力。剣道や少林寺などそういう技術体系にあった傾向を持った話し方をする人がいると。後の先を好む人は相手に喋らせといて、そこからかぶせるとか、横槍を入れるとか。なるほどねぇ。話すことも間合いの訓練ですか、なるほどなるほど。

 ちょっと強くなって、実力がついたらホイホイ黒帯を上げてしまう問題。少林寺拳法は胸の卍のマークで実力の差異を示す。黒帯は外向け、内ではまた別の論理が見えると。

 競技力の人格と一般社会での人格の二つの性質が合って、その競技と一般社会の二つが要求される。競技によって、またその社会によって求められるものは違うから、XY軸で表現すると、形成される図形・求められる範囲が異なってくるのは当然。競技がないモノのほうが当然競技以外の人格を求めるから要求する範囲が広くなる。競技があるとそれが狭いことになってくる。若い頃優れた武道家が指導者になって飲んだくれや犯罪者になるという困った問題もある。

 山下氏は柔道のシンボル的な存在。その彼が柔道の暴力事件について何らかの取り組みをしないのは無責任、もしくは視野が狭い。ロス五輪の水泳チームの大麻事件も同じ。東大の宮下教授・武藤助教授がいたのにそれに気づけなかったこともまた問題視されるべき(絶対気づけとは言わないが)。少なくとも問題定期が必ずなされなければいけないこと、批判が小さいのはおかしい。

 拓大のリンチ殺人事件は恐ろしいこと。それに対する批判・反省がないのはもっと恐ろしい。拓大だけが特別な存在だったか?そんなことあるはずがない。

 チャンピオンスポーツはそれ以外の価値・体系を切り捨ててしまう。決まりきった集団練習以外のことをやりたいという人間はたくさんいるが、それに対する声を挙げられない現実があると。

 懸かり稽古、弟子がわざと師匠・目上にやられる稽古。それで散々やられた弟子がフラットな状態で、違う稽古でまともに実力を発揮して戦えるようにならない。権威付けのために存在する。組織にそういった<擁護システム>が存在する。実力は落ちるが組織の結束力は高まる。ついていけない人はそこで辞めていくという図式になる。

 ダブルバインド、懸かり稽古と同じように<場に入る訓練>で唐突に型をやれというようなムチャぶり。懸かり稽古のようなマイナスではなく、とっさの対応力を鍛えようとして要求する。ダブルバインドという矛盾を乗り越えることで成長をしようとする。が当然無茶ぶりには違いないので辛いことには変わりがない。その危険性を理解しないといけない。※開祖はダブルバインドを克服して成長を望むために、色々考えたのに、それがいつの間にか擁護システムに変質してしまったという要素があるんでしょうかね?

 組織の特定の構成員のために社会のいたるところで擁護システムは見られる。宮下教授はまさにそれ。居づらい雰囲気を出して相手のミスを誘って、権威付けを図っていると。

 体育会系のいじめの本質は、そのダブルバインドにあるということですね。擁護システムは楽だからつい、それに流されてしまう。今の社会のいじめの問題はこの擁護システムの認識とその打破なんでしょうね。だけどその擁護システムが居心地がいいから、決してそれを根本的になくそうともしないという感じでしょうか?そして擁護システムという歪なものを知っているからこそ、経験しているからこそ、何でもかんでも擁護システムだ!と過剰反応して間違った抗議をするのがモンスターペアレントって感じですかね?

 実践について、ペスタロッチという人がチラリと出てきたので一応メモ。

 現役で居続けること、成長し続ける事こそが擁護システムに頼らずに自分を保つことになると。

 チャンピオンスポーツで優れた人間を輩出するには賞金制度、専属コーチをつけるなどや利用はいくらでもある。中国の卓球なんかはそれで成功している。

 メタ性を持って生きる、専門バカの否定ですかね?

 車の運転は感歎な組手の練習。歩くことでも訓練になる。内部の認識で行われている情報処理が普通の人とまるで違ったことをやると。たとえば四車線&歩行者をすべて把握するとか、また焦点を動かしたり、動かさなかったりで全て把握するようなことを行うと。子供は行ったり戻ったりで非常に怖い、子供ではなくその認識を普通に運転する人はできていないから。そういうことをやりながらの運転は非常に疲れる、運転しながら呼吸や調整で回復させると。

 武道とスポーツは同じ。武道特有のものだ!と喜んだ<フリーイング>という動きも、やはりスポーツにだって存在する。床を滑るとか滑空しながら回転するとか曲線運動とか。甲野氏がいう水鳥の足というのもこれ。武道特有の動きだが、少し進んで一般化するとスポーツにもある。ペレがそうだった。<フロート><スライド><タッチ>それぞれをしながら、フリーであるという状態。柳川先生の歩法がまさにそうですね、これ。

 体操・バスケは<フロート>空中で飛びながら自在に動く。スキー・スケートは<スライド>、一番わかり易いのは野球のうまいスライディング。ユニフォームが汚れるのは下手くそな証拠。うまい人は長距離をしかも曲線運動で行うと。