別館、身体論・武術・スポーツのお部屋

身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい。また基本長いので長文が無理な方はお気をつけ下さい

高岡英夫著書メモ①

 気になって読みなおしたメモ。本筋はふっ飛ばしてるので当てにしないでください。色々読みなおしているのであと2、3回は書くかも。

からだには希望がある/総合法令出版

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 身体運動に出る人と頭脳で出る人がいる。ジョーダンが小さかったら優れた経営者になっていたかも。両方で出る人がジャック・ニコルソンだったか?いた気がしますが、それはあくまで例外なんですかね。二つに分けるより一つに集中したほうが大成する。とすると両面で発揮される場合は、そのような特殊な装置みたいなものがあるんじゃないでしょうか?まったくの偶然、レアということで終わってしまうんでしょうかね?

 独創的な研究とは直径30センチの粘土の固まりの中から直径数ミリの鉄球を細長い棒で探り当てて、反対側に押し出すようなもの。

 山岡鉄舟は深く息を吸えていたからこそ、敵軍のまっただ中をよぎって、会談を持って相手と分かり合うことが出来た。相手をしっかりイメージして相手を吸い込むように深く息をすると相手と深いところまで分かり合える。

 そういえば、身体で息を吸いながらと吐きながらの動作では相手に与える影響力が違うという話はこの本でしたね。吸いながらだと子供がついてくる、逆だとついてこないとか。

 噴火する火山は熱性の気が集まりやすい、登山というのは熱性の気を身体に取り込むためのものなのかな?それに高いところであればあるほど清浄な気があるというし。

 井戸端会議の理由は、地下水の清浄な気にある。また地下に掘ってあるから、地球に立っているという深さを体感しやすい、つまりセンターが強まると。高ければ高いほど清浄な気が存在する。秋の青空の気持ちよさに、星空はもっと気持ちいい。天に意識が届いている人は、曇とか天気に関係なくその気を取り込んでいるからいつもエネルギッシュになれる。そういう人のそばにいると清浄な気を分けてもらえるから、元気が出る。

 美味しい料理はぞんざいな扱いからは生まれない。気を取り込んでこそ美味しくなる。まあよくビールを注ぐ例で説明しますよね。

 宇天気功とありますが、これまんま立禅ですよね。だからこそ意拳というのはあれほど優れた人間をたくさん輩出してきたということですかね。舌が上顎につくとかおんなじですもんね。眉間に光の糸、天地に宇宙があれば、前後にだってある。眉間で宇天と繋がる。皮膚・内臓を細やかにする。内を謙虚に外を敬う。

からだにはココロがある/総合法令出版

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 相撲取りは差し手争い、甲で腕をリードするのでそこの意識が強い。ピアニストは指の先端の意識が強い。よく鍛えられたピアニストは、薄いガラスを拭いている時に紙のように引きちぎってしまう。指の腹や全体をうまく使えないのでマッサージが出来ない。逆にマッサージ師は指の腹や掌など広いから鍵盤を強く押し込めない。足裏の意識が発達した武道家は画鋲を踏んでも皮一枚の所で気づいて体重を抜くから深くは刺さらない。

 これではないですけど、タンスのカドに足の小指がぶつかっても瞬間的に抜くことで痛みで悶えることはなくなりましたね。苦しむのはぶつかってからも体重を移動し続けてそこに力の逃げ場がなくなってエネルギーが集中するから地獄の苦しみになるわけで。

 魚を切るのも運転をするのも茶碗を持つのも、何をするにしても人間はガイドラインを作って、それにそって運動をしている。動作がおぼつかないというのはガイドラインに沿って運動が正確に出来ていないということでもある。運動の前に意識が先行する。チーターはインパラを追うとき、その先行意識を読んで追っかけている。そうでなければ高速で動きながら、急激に方向を変える獲物を仕留めることなど不可能。

 母親はおでこに子供にラインがあって、あなた達がどこにいても何をしているかわかると言っていた。父だけじゃなく母もそういう優れた身体を持った人だったんですねぇ。リバースがかかっていたため父親にバレて、止めた社会的事件になることというものは一体何なんでしょうね?朝顔屋敷という話が昔あったので、街中に花とか植物とか咲かせまくろうとしたんでしょうかね?

意識のかたち/講談社

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 180センチ85キロ、サージャントジャンプ1メートル・ベンチプレス160キロの氏が160センチの痩せた民宿のおじさんに材木運びで勝てなかった。木を抱えて滑るように山を駆け巡ったとのこと。母はマジック・ジョンソン並みの目配りができた。武蔵にも身体意識の理解・概念はないと書いてたのはここだったんですね、のちに武蔵にもセンターの概念があったと改めてますが、それまではそういう本質への理解はないという捉え方でした。

 しかし、相撲の話はどの本だったか?この『意識のかたち』だと思ったんですけどね、『ハラをなくした日本人』かと思ったらそれも違ったし…。『鍛錬の~』四部作だったか、どうだったか…?

身体調整の人間学/恵雅堂出版

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 斉藤孝さんの本多分読んでなかったっぽいので読んでみました。やっぱ読んでなかったものでした。身体調整、野口整体みたいな手技療法を学問として成立させようというアプローチがあったんですね。今だと達人調整というものになってるみたいですけど。そういえば藤本さんのロルフィングというものも調整・整体の発想と同じですね。今広く使われている整体は、元の野口整体とは別物になってしまっていますが。

 身体論メルロ=ポンティなどから、身体調整の学問・理論付けをしています。身体調整では押すのではなく押される感覚がポイント、押されるようにして行うと、その場限りでの気持ちよさだけではなく、その後も暫く気持ちよさが続くとのこと。打撃の観念と同じですね。その場限りで痛いだけでなく、暫くずっと痛みが続くような効く打ち方には、「打つ」という感覚でやってはダメなんでしょうなぁ。むしろ相手の反力・反作用を感じ取らないとほんとうに効く「突き」というのはできないということなんでしょうなぁ。なるほどなるほど。

 さらに押される感覚で行うのではなく、自分も相手も液体のようになって融け合う。そしてその手から自分と相手の液体が循環するようになる感覚で行うのが大事と。液体・水になることこそ拳法の理ですが、相手と一つになるという「調和」の論理も同じことなんでしょうね。ん―、まったく関係のない所で感銘を受けてしまった(^ ^;)。両者の境界がなくなるようにするために、「開いておく」事が重要になる。立つことも同じ、地面が自分を支える反力を感じて立つことと。足を開けておいて床から流れてくる力を感じること。

 水になって波に乗る感覚がある。どこに力を入れればいいかわかるようになり、感覚と行動が同時になる。分かったら既に行っている状態になると。熟練する調整士は順番でほぐさない。不規則にほぐす、そして受け手のここだというツボを的確に抑える。理想的状態に入ると疲れない。直観が必要、論理・理屈でわかるものではない。

 優れた観察をもって相手を自分に写して療法を行うから「かぶり」、相手の悪い所が移るということが起こる。

 最後に食事から天気からありとあらゆる物事に繋がりを感じることというのがなるほどと思いましたねぇ。蛇や鳥のモノマネかぁ。潜在意識の意識化・操作法ってなんなんでしょうね。睡眠の入り方とかも気になりますね。排泄まで細かい注意事項があるというのが、修行の発想で宗教家は気になるところじゃないでしょうかね。