別館、身体論・武術・スポーツのお部屋

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身体の話(2014/2)

 久しぶりに身体の使い方の気になった話を、というかあんまりまとまりないメモというか。結構前に書いたメモもあるしね。こんなもん書く意味あるのかっていう話ですけど。

 藤本さんの秘伝での写真で身体を捻っているのがあって、仏像のような身体の捻じり方ゆるみながら捻るというのが気になっている。やっぱ背中が固まってるから前後・上下のバランスが悪いからうまくねじれないのかな?部分、局所固定されている感じがする。支点作ってねじったら死に体になるから餅やネリケシを捻るような感じでつながりながら捩じりたいんだが難しい…。

 ものの見方、目の使い方。真ん中をスカスカにするというか上下左右の四方を見る。両目の真ん中に意識を置かない。四方に開いていく感じで見るという見方・目の使い方。子どもと違って目線・視点が固まりやすいですからね。ふわっとかけるように見るという見方と違って、またこういう見方・目の使い方もいいんじゃないかな?とか思いました。

 あと非焦点視、ピントを合わせないで周辺視で感覚的に見る、察する感じで見る訓練をした方がいいのかな?と思い、焦点を合わせずに絶えず目を動かしながら見るというのもやってみました。効果あるかどうかわかりませんが、観の目というので高岡さんがそんな話をしていたので焦点を合わせないでモノを見るってのが脳のリラックスにもいいのかな?とか思ってやってみました。効果は不明です。

 溶粘歩動法=その場足踏み、その場歩きで感じたこと。中丹田のボール、胸のボールを動かして腕も動く。首から上が頭じゃなくて、ボール部分の背骨からウエが頭というイメージ・感覚。ボールと腕がつながっていて連動するように使う。ガチャガチャのカプセルのようにボールが二つのパーツからなっていて、それぞれ片方が独立しており、それぞれ互い違いに動くように。

 脚で足踏みをしてはダメ。肚で動かす。肚から吊るして脚がある、生えていることを忘れないように。

 やはり一番胸を開く、鎖骨を広げるという感覚の違いが大きいかな?立禅で胸の前でボールを抱えるポーズの時もやはり同じように、ここに意識が行く。固まっているなぁということに気づきますし。まあ、そんだけ普段胸が縮まっているからこそ、そこが固まってしまっているということなんでしょうなぁ。座ったり、何かをするだけで胸は固まる・縮むということですね。

 肘と肩から釣り上げることによって脇を開く。脇を開くことで縮こまりやすい胸を開く。胸を開いて背中をゆるめてやる。背中が固まるのは腕を閉じて使うから。己がなで肩だということも大きいのかもしれない。わかりやすくいうと、いかり肩・肩をすくめる感じ。それを肩に意識をおいてやるのでなく肘・脇・胸などに意識をおいてする感じ。以前書いたことのある、腕を短く使うという使い方も脇・胸を主体にすることでそうなるので、結局そういう話に繋がっていくのかもしれない。

 なで肩だから腕は自然に垂れるのだけど、脇や胸などを潰してしまう危険な「垂れ」という可能性はないのだろうか?

 突く時に「肩を出さない」という教えはそういう意味で正しい身体の使い方だとわかる。脇を開けば肩は出ない。腕の重みが出るし、身体・体幹のパワーも伝わる使い方だから。腕で突くのではなく肩甲骨や肋骨など、さらには体幹を使って、突くには肩を使う動きはマイナス、腕力に頼った突きになるから。

 天を仰いで腕を脇につけて犬の服従のポーズのようにすると拘束背芯が緩むと思われる。固まった目・肩・首のリラックス法としていいかも。

 背中のストレッチとして、柳川先生の倒地法・突きの威力の作り方の鍛錬法がいいことに気づく。壁に拳をつけて倒れ込みながら、拳とは真逆の方向を見るという例のあのポーズですね。あれやりながら片手腕立てみたいに動かすと背筋を動かすのにちょうどいいのでいいんじゃないかと思います。ナイファンチンでちょうどこの背中の使い方をやりますが、うまく連動できないとか力が入らないとかそういう時にはこれがいいかも。あと、身体を浴びせること、バランスをとること、肚など全身の筋肉を使うという感覚を養うのにいい気がします。

 連動させる、全身の協調ですが、なんか調子がいい日があってうまくいく日がありました。なんで調子がいいのか、連動がうまくいく日があるのかよくわかりませんね。そういう日は繋がる事がよく分かるんですが、感覚・意識の問題じゃないんでどうもよくわかりません。病み上がりのあとにある特有の良い体調・コンディションなのかしら?大雨の後のいい天気、気持ちのいい太陽みたいに雪の後の太陽がいい影響を与えたのかしら?

 全身の協調・連動がうまくいって呼吸が自然にうまくいくという感覚もあったんですがね、なんでいいのかよくわかりません。あんまり内部、横隔膜とか肚とか意識しないほうがいいのか、それともそういう方法もあるということなのかしら?腕・脚というか身体の連動を意識した方が呼吸がうまくいくという感覚がありました。意識して呼吸法というものはやるものですが、意識せずに自然と呼吸が気持ちよくなるという感じで非常に良かったのですが、再現ができない…。大きく・深く・内部を意識してという自分の呼吸の感覚と全然違うんですよねぇ…。上手く説明できないんですが、ひと回り小さく呼吸するという感じなんですよね…。自分で言ってて何言ってるか分かんないですね。これもう分かんねぇな。

 そういえば、高岡さんは著書で天性の意識というものは新雪の上にあるという話をしていましたが、そういう影響があるのかしら?関東の大雪でせっかくなんで雪ではしゃいで遊んでみましたが、なかなかテンション上がりましたね。雪遊びによって天性の意識が高まるとかあるんですかね?子供特有の雪のハイテンションはそういう関係があるんでしょうか?まあ、天性の意識とはしゃぐという感情はチョット違うか?あと北海道の大地には重性の意識があって、地重根とか、そういった意識が発達しやすいとありますが、北海道で佐川幸義とか武田惣角とか堀川幸道とか岡本正剛とかそういった人々が北海道から輩出する秘訣・要因に大地以外に雪による天性の意識のし易さ、掴み易さというものがあったりするんでしょうかね?

 ラストにブローデルの長期持続の概念の話。長期のスパンでものを見ることは歴史学の役目・役割であり、社会学は最新に注目して短いスパンを見る。社会学は長いスパンで見ることが出来ないという話。この関係性は武道とスポーツの関係に似ているなと思った。武道は長期間、戦うという必然性から培われてきた身体の芸術。しかし今では近代兵器・火器があって、その多くが応用は重要であっても、それらは必要されなくなっている。現代で意味を持つ、人に大きな影響を与えるのは観客を前提としたスポーツ。歴史の浅いスポーツを社会学として、武道を歴史学として見立てて説明するというのは結構すんなり理解される、大衆に受ける説明なんじゃないかな?とふと思いました。