別館、身体論・武術・スポーツのお部屋

身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい。また基本長いので長文が無理な方はお気をつけ下さい

サイバーヨガというものから気付いた「ただいま」という言葉の価値

月刊 秘伝 2013年 08月号 [雑誌]/BABジャパン

 この号のメンタルトレーニングの特集でサイバーヨガというものがあって、そこで気付いた話。いつか、このサイバーヨガの話を買いておこうと思って書き忘れていました。

 ヨガを科学的に研究したとかで、ヨガ・瞑想をやっていると脳の中の島と呼ばれるところの神経が太く発達すると。んで、トレーニングをサボるとまた元通りに戻ってしまう。メンタル系のトレーニングも筋トレのようなものでずっとやってないと効果がなくなってしまうのだと。

 大事な場面で身体が緊張してプレーが出来なくなる・精度が落ちてしまう、またひどいものだとイップスというものにさえなる。そういうのは扁桃体に原因がある。人は失敗から学ぶ。過去の経験をこの扁桃体に蓄積しているわけですね。んで、扁桃体からの情報が無意識のうちに上がってきて、今自分がこうしようと考えている行動と矛盾した情報が脳に同時に上がってきてしまうから処理しきれず、脳がパニックになる。これが「あがる」というもののメカニズムだと。

 それを防ぐには扁桃体からの情報をシャットアウトする必要がある。ヨガやメンタルトレーニングでこの情報を断つには「今に集中すること」が重要になる。ただ、今に集中する。この時、この状況に集中し考えることを止める。身体に任せることで最高のパフォーマンスが出来るというわけです。

 だから、よくスーパーアスリートはあがっている人、一流から二流のあいだで苦しんでいるプレーヤーに「集中しろ」「余計なことを考えるな」というアドバイスを送るわけですね。彼らからするとそういう選手は「今に集中しきれていない」ことが傍から見ていてよく分かるんでしょうね。そういうことができるからスーパーアスリートと呼ばれて、結果を残してきたのでしょうけど、そうでない人からすると何を言っているかわからないでしょうね。まず、そういった回路が脳内に構築されていないのでしょうから、その壁にぶつかっている選手というのは、「ただ考えるな!」と念じるだけで終わってしまっているのではないでしょうか?

 今後はアスリートもメンタルトレーニングでそういう壁を打ち破るために当たり前のように取り組む時代が来るのでしょうかね?確か記事ではセリエAかプレミアかどっかの球団はメンタルトレーニングの検証を取り入れているって書いてありましたし。瞑想・ヨガ・座禅に取り組むのが当たり前の時代もすぐそこでしょうか。

 瞑想について次は書こうと思っていてまた全然書けていないんですが、いつか瞑想の話しを書きたいと思います。

 扁桃体の損傷により恐怖を感じない女性  という記事を読みましたが、女性が蛇や蜘蛛を素手で捕まえるというのが書いてありました。本来、恐怖を司るところ。それが機能しないから好奇心が勝ってしまったというのは面白いな!と思いましたね。「人は成長するに連れ、好奇心が衰え、恐怖心が増していく」―こういうことが言えるのではないでしょうか?

 またヤク中から刃物を突きつけられても怯むことなく言い返して相手が帰っていったと。これには相手がその様子を見て、こいつおかしいんじゃないか?と引き下がったと書いてますが、それもあると思いますけど、人間というのは書いてあるとおり、感情に共感する生き物ですから、相手が恐怖という気持ち・感情を持っていない相手に対して反応ができなかった、やる気が起こらなかったということではないでしょうか?

 愛情を抱いている者には愛情というものが伝わり、共感します。悲しみも同じです。怒りや恐怖という感情の制御が武道で重視されるのもそのため、殺し合いの最中、普通は憎悪とかそういった感情を司る脳の分野が活性化するところ、相手側がそこが動かなければ、殺そう!という側の脳が共感出来ずにパニックになるんでしょう。達人の間合いのコントロールというのもそういうのがあるといいますし。

 武道・武術というものは脳をコントロールするという要素がありますから、そういうものを管理・支配するためには恐怖をなくすというのが非常に重要なファクターなのでしょう。中国拳法の本で山田さんが、禅によって自分が今恐怖しているという、ただ在るが儘の自分の状態を受け止める事が大事だと書いてましたしね。

 本文で、PTSDの治療にと書いてありますが、そういった境地を目指す人間ならきっと、そもそも「PTSDになるような人間が、戦場に行くなバカ」というような気がしますけどね。中途半端な研究成果でPTSDが出ても禅の効果で大丈夫!テヘペロなんて言われたらたまったもんじゃないですからね。


 あ、そうだ忘れてた。「ただいま」という言葉・挨拶の重み。まあラストに持ってくる形になったからちょうどいいか。「たった今帰りました」だから「ただいま」なんですが、帰りましたの方が意味合いが大事。英語ならI'm comingですが、「ただいま」という言葉には「私」も「帰ってきた」という言葉・情報が消えてしまっている。特異な形で残っているわけですが、日本語の挨拶は全て「今」の時間に注目して、今はどういう状況なのかを語り合うものですよね。おはよう御座いますを除いて挨拶をする間柄というのはむしろ、逆にあまり親しい関係じゃないという気がしますけど。「さよなら」という言葉を家族では使いませんしね。「行ってきます」しか使いませんから、家族間では。

 そういう親しい人間は「ただいま」「お帰りなさい」しかないわけですね。「さよなら」という言葉は使わない。今に集中する、今をありがたいと思うその気持が挨拶に凝縮されているとすると「ただいま」という言葉の重み、センスが素晴らしいなと実感しますね。戦場カメラマンの渡部陽一さんが帰ってきて「ただいま」といって家族を抱きしめるときに、体中がホワっと暖かくなって、ああ自分は生きて還ってこれたんだなということを実感するという話がありましたけど、本当は「ただいま」という言葉にはそういう意味合いがこめられて生まれてきたものなのでしょう。