別館、身体論・武術・スポーツのお部屋

身体論・武術・スポーツ関係を分割してこちらで独立して書いてます 野球評論は辛辣に書いてますので苦手な方はご注意下さい。また基本長いので長文が無理な方はお気をつけ下さい

荒天の武学 光岡英稔/内田樹

荒天の武学 (集英社新書)/集英社

 ーを読んだのでちらっと感じたことを。韓氏意拳の光岡氏はいま(?数年前からでそっちの方がピークか?)注目を浴びている武術家だと思いますが、本やDVDを出したりしないので、気にはなっても縁遠い存在でした。その光岡氏がようやく本を出すというので、(゚∀゚)!となって読みました。韓氏意拳関連の本はいくつか出されていたんですけどね。

 大東流をやって、岡本正剛氏にハワイの道場・支部を任される(正式な弟子ではなかったのかな?)。韓氏意拳の前にいろんな武術をやって、ハワイでもカリやシラットなどを学んでいるみたいですね。韓氏意拳も2000年頃からで、「韓氏意拳の光岡~」というよりか光岡英稔個人の色合いがかなり強いという気がしますね。ハワイでの経験無くして光岡英稔という稀有の武術家の強さの秘密を語れないでしょうしね。

以下、氏のハワイ経験、サモアン・ハワイアンの話ですが↓

 ○ハワイ武術の実戦性、向こうでは金的をけるのが当たり前。これはしないだろうという日本的な常識は通じない世界。ハワイアン・サモアンは石で殴りかかる。そうじゃないと効かないから(p25)。

 ○関根秀樹氏の東南アジアの首狩り族の話が興味深い。政府がダム作るから立ち退けというので、4~5年前に役人の首を狩ったという話がある。そりゃ実戦性は現代日本とケタ違いの世界ですわ(p35)。

 ○サモアン・ハワイアンは「なにもしないから」強い。自己や民族としてのアイデンティティがしっかりしているから意識が拡散しない。意識が集中している人は力の使い方など自然にわかっている。現代人は意識が拡散しているから、体得ができない。マニュアル・ステップを踏まないと成長できない。ハワイアンが西洋の楽器を弾くところを見ただけで楽器の弾き方を覚えてしまったとかいい例ですね(p105)。

 ○ハワイで警察として実践を積んでいるバーニーラウ氏、三教をかけた相手が、かけられたまま氏を持ち上げた!そういう体験から実戦で使えるように合気道を改良していった人。相手にスプレーの目潰しが効かなかったり、麻薬捜査官=アンダーカバーの任務をこなしたり、貴重な実戦経験を持つ人。拳銃を想定した稽古の時本当に持ってきたのは彼くらいだったと(p124)。

 ○サモアンとツレ?知り合いが喧嘩になったとき、彼らは部族の狩りの感覚で獲物を探すように声を上げて連絡を取り合っていた。彼らは生物的な強さを見ぬく、反応する(p153)。

 ○カリのイラストリシモ氏が酒屋で喧嘩になって一瞬で相手のクビをはねた。向こうの武術・剣術は精神性というか活人剣、日本の武術(禅とか仏教とか取り入れたりする)のような感じはない。剣聖ではなく、ほんとうに暗い怖い人間、殺伐としている。戦士と認められれば敬意を払われるという風土だから。部族同士の対立が常識の社会だから、「とりあえず首を切って和解」ということになる。勿論それをもって日本が上とかしたとかそういう話ではないですよ。あくまで風土・環境の違いによる制約があっての話ですからね(p171)。

 ○サメを釣り上げたサモアンは、サメの目を見て殴り殺そうと殴った。目があったから、攻撃性を感じたから―ではなく、もう同時になっている。意志の前に反応して行動している。サメは考えて噛もうと行動しているわけじゃなくて自然の反応として行動している、それに同期した。相手に合わせるでは遅い。合気も植芝がポジティブな言葉にするまでは良くない言葉だった。斬ろうとする人に合わせたら、斬られてしまうから(p185)。

 ○ハワイアンが拳法の修行で酒場行って喧嘩する。金属バットに殴られても感じない。元から強い。やっぱり部族同士の喧嘩の名残で、引きずったりしない。サバサバしている。これ以上やったらいけないというブレーキが掛かる(p200)。

 ―という体験などを聞くと、ハワイという環境は実戦性が高い場所。そこで磨いてきたこと、身を置いてきたことに光岡氏の術技がスゴイ理由があるのだと思いました。また、ハワイアン・サモアンという生まれたままに強い、そういう人間を見てきたことが大きいのだとも感じましたね。光岡氏を写真で見た時、異様な感じがありましたが、これはサモアン・ハワイアンになったんでしょうなぁ。光岡氏はサモアン・ハワイアンなんだよ、と説明されるとすっと納得できる。ああ、この人は元々「違う」のねと。日本で目にする達人・名人とあきらかに風体が異なるのはこれだな!と思いました。氏の若いころの写真は普通の青年ですからね。

 武術・武道に必要な体験・環境というのは日本でも中国でもめったにないんじゃないでしょうかね?だから韓氏意拳を学んだ時に、「あなたは私の言うことをわかってくれて嬉しい」と言われたんでしょうし。野性といいますか、そういったものを磨ける環境というのは現代非常に重要なテーマだと思いましたね。


で、以下気になったところメモ&コメント。
 ○シラットのイングラム氏の教え―ナイフの切り傷を見せて、ナイフで死にかけたけど今私が生きているのは「諦めなかったこと」「運が良かったこと」この二つだと。他の人は分からないが、光岡氏には分かった。他の人は技術を教えてもらうことを望む。

 まあそりゃ普通の人は技術をマニュアル化したものとして学ぼうとしますわな。しかし氏はそうじゃなく、その言葉で体系がわかったというんですから、まさに体得のレベルの人の話ですね。言葉をかわしたりするより、「ひと目会ったら、それでわかる」というレベルの人の話。面授の観念ですね、そういった高いレベルの人の話はまあ一般人には、当然己にもわからないですね。そういう境地があるんだということしかいえません

 ○馬上槍でやりを投げ合う祭り、話しているおじさんは片目を失明していた。祭りが危険だから止めよう!みたいな頓珍漢な意見が時たま出されることがあるが、祭りというものの性質には危険を犯して生命力を奮い立たせるというようなものがあるはず。あえて、危険なところに身をおいてこそ生命力は沸き起こる、そういった人間の本能を知っているからこそ、あるはずなのに危険が危ないで禁止したらなんにもならないのにね。アホですね。危険だからこそ人は真剣になり、楽しんでそこで連帯・一体感が生まれるんだろうに。イタリアだっけ?スペインだっけ?トマト戦争、投げ合いにはその一端があるんでしょうね。そして祭りにはある種そういった擬似軍事訓練があったりもするんでしょうな。そういった祭りをもっと各地で増やさないといけないと思いますね~

 ○兵卒としての能力=指揮官=領主(経営者)の能力という話。誰が誰に適している、優れているかを全体で把握し使う能力。100人、1000人、10000人とだんだん規模が上がっていく。気の感応・スキャニング=俯瞰能力で理より先に物事を押さえられるようでないと一万人レベルを動かすのは難しい。

 ○晴天型=既存の競技化した武道、まあ格闘技では間に合わない。使えない領域をどうするか。荒天型の武道とは?というテーマで書かれていますね。

 ○過去の名人・達人は今なら剣術を練習しない、原子力とか軍事力など最先端の研究をやる。植芝盛平に弟子入りしていた華族や政治家は単純な業を求めてやってきたのではない、思想・哲学、大きな世界観を求めて修行に来ていたはず。

 ○本来、~投げ・~技という稽古をすると固定されたパターン化をなぞるだけ、マニュアル化してしまうから練習にならない。本当は合気道でもそういった練習法は最初はやっていなかった。意拳で組手・対人稽古はしない。それはマニュアル・パターン化になるから。

 ○一億総懺悔という真剣に問題に向い合って解決法を出さなかったという間違い―これは誤った理解なのだが…。一億総懺悔した対象は天皇陛下に対してであって、国民が天皇陛下に対して敗戦したふがいない我等をお許し下さいということなんですけどねぇ…。そっちの間違った一億総懺悔というのは例のアレ、あの人達が勝手に創りだした「神話」なんですけどね

 ○韓氏意拳は日本のほうが学ぶ人が多い。中国では少ない。韓競辰氏いわく中国人は頭が良すぎる。なまじ中国語ができるから、頭で理解してそこで終わってしまう。大事なのはその先の体感や真理にあるはずですよね

 ○てにをはがない漢字の羅列だから中国人は思考に間がない。いつも忙しいと言っている。「中国人は忙しい」か、スゴイいいキャッチフレーズだな、これ
 中国人の情緒は日本語では絶対にわからない。感覚や感情の間が短い―余韻がなかったり、単発単発で感覚や感情があるということなのだろうか
 心ではなく、意。心というのは漢字に心が付く、思・想・憶・志・情・念など。意は心の働きとして一番初めに来る衝動の兆し。思いが起こる萌芽とでも言いますか、感情の一番初めの原始的な思いですかね。心になる前の沸き上がってくるなんとも表現しきれないものって感じなのかね
 日本は心の文化、李白や白楽天は意を表現している。現代中国人でも詩は「そういう見方もあるかもね~」くらいの感覚しかなくなっている。

 ○日本語ではわからないから、中国語で学んだ。しかも中国語がまだよくわからないうちから。大事だったのは「何を学んだのかよくわからないことだった」という。まあなんというか天狗に教わった的な感覚に近いものがあるんでしょうか?言語を通じて学んだんじゃなく身体で学んだ、もっと深い精神や魂レベルで感じ取り、理解したということなんでしょうなぁ

 ○内田さんの尊敬するレヴィナスさんの話。武道は哲学、大会での成績・トロフィーとか、あるいは現世的な営業成績に結びついたとか、そういうものを求めるものではない。学業とか人間関係だとか現世利益以上のものを求めるはず。この考えは以前取り上げた宗教の話と同じですね。ご利益を期待しない段階に入って宗教性はまた一段と高まるというね。

 ○能、シャーマニック、霊のような何かを呼ぶという発想がある。武家に独占されたから、庶民の歌舞伎が生まれた。能の禁止されている行為をどんどん取り入れた。宗教や呪術性を廃したものが歌舞伎。能は鎮魂話ばっかり、しかも意味が無い。いつの間にか怨霊・鬼婆化して、ストーリーを語る、しかも解決=オチが無い。ただ再現するだけ、記憶も欠落していてあやふや。能の言葉、身体使い。外国語のように独特なもの、違った世界観がある。それを通じて一体何を見つけよう、身につけようというのだろうか!?能が要求する身体、世界観とは?武家社会で定式化、磨かれていったというのは当時の武士が要求する身体・能力を切り開くための装置だったんでしょうけどね。うーん、興味深いなぁ能は

 ○シラットやカリと韓氏意拳素手でありながらリアリズムで似ている。素手の稽古はある程度力で頑張ったり、対応が効く。しかしナイフ一本あればそういう前提は全く通用しなくなる。そういったリアリズムが韓氏意拳にはある。刃物のようなものは力でなんともしようがない、そういう稽古を既出するのは難しい。

 なるほどなるほど。合戦は一対多が当たり前という話もありましたし、おそらくはそういった制限・制約のない、前提をもたない所があるからこそ、韓氏意拳に惹かれたんでしょうね。山田英司さんもそんな話をしていましたけど、その武道がどういう体系を意識しているかで全く競技の性質も変わってくる。一対一か、それとも一対多か、多対多か?寝技・立ち技などに制限はあるか?また武器の使用は有りなのか?そういった前提によって格闘技の有効性も大きく変わると。そして韓氏意拳というのはそういった定義はしていないのでしょうけども、一対一のような限定もなければ、素手素手といったような制限もない。そこに光岡氏はリアリズムを感じたのでしょうね。しかもそれを突き詰めた結果が格闘技のような競技化ではなく、もっと根源的なものに目を向ける体系ですからね

 ○リラックスや脱力は身体の生きようという意志を放棄するからダメ。舒展、気持ちを開放して伸びやかに行うこと。いわゆる虚脱、ただダラ~っと力を抜いただけでは本当の脱力にならない。下にだるんとするより、全身を伸ばす、のびやかにする感じのほうがいいんかな、やっぱ

 ○位や機の話がありますけど、難しすぎてわかりません。関係性の話、全てはその都度その都度変化し、一瞬たりとて同じものはない。二度と同じ川は流れないというものに近いものがあるのでしょうけど。時間を均等な概念に分けて理解している近代人の発想では武道ではない。武術は「時間を操る」技術。普通の時間では、決まりきった動きや結果しか起こらない。が、そういう共有された時間、制約された条件から解き放てば別と。ハワイアンは時間がない、そういう彼らと過ごしていると時間が消える。

 ○無文字社会では踊りや唄で文化を伝える。祝詞などそういった呪術・宗教性というのは筆記によってその性質が著しく変わる、本来再現できないものを再現可能なものにしようという文字に対する抵抗は古代の人にとってはものすごい大きかったんじゃなかろうか?文字によって感性を失った現代人という視点は重要な気がするなぁ

 ○ジャンキーが多い。やばいストリートというのがヨーロッパにもあって、一歩足を踏み入れると、ここは入ってはいけない場所だというのがわかる。日本人はそういう感覚が鈍い。

 ○日本の文化は道具に精神性を感じる、道具を通じて自然とつながろうとする。

 ○感覚が前後左右に崩れやすい、貯めるのではなく感情を収縮させる。気持ちと身体がずれる。そのズレがないように整える訓練をする。

 ○良き市民、悪者という二項対立はない。ファジーな分類できない領域がある。出来るとするならそれは絶対正義がある社会。ココらへん橋下サンの話も出てきて、まあうんざりしますね。正直橋下話を持ち込むのは自重してほしい。刺青の話など大阪の複雑な問題を語りもしないで表面的に解釈したらアカン。前にあったように武術家は今なら武術をやっていないとあるんですから、内田さんも批判していないで政治家になったらいいと思います。ならないまでも政治家を育てる・支援するとか実践しないと、それこそ橋下さんと同じ土俵に立っていない気がしますね。何か一方的に批判しているだけで、卑怯という感じがします。


 
※こっから長くなるので、強調止めます。こんだけ長くずらずら描いてりゃ拙感想とわかるだろうし。強調は読みづらいわ。すぐ拙コメと判断できる引用がなければ強調する意味ないですしね。


 まあ、これは橋下氏も似たり寄ったりで、組織やある集団を、「~~というのはこういう傾向があってけしからん!」という叩き方なら批判として喝采を浴びても、批判対象の相手側は組織だから叩かれたことでそこまで深刻なダメージにならない。だけど個人を攻撃する際には、叩かれた個人は逃げ道がなくなるのだから、ものすごい慎重にならないといけない。おお、橋下これは正しい!となることもあれば、そんなことでいちいちキレるなよ、みっともないということがある。叩けばいい!おいしい!というのはちょっとしたマスゴミと共通する精神がある。マスゴミであってはいけない、そういう繊細さ・センスがない。

 何回も言って来ましたけど、論ずるなら良い点・悪い点それぞれきっちり絞って論評しないと公平・公正だとは思えない。橋下が良かったら、良し下と評価して、ダメなら悪し下!ダメだぞ!ときっちり分けて論じるべき。氏の言説を見ていると単なる橋下憎しにしか思えない。もう揚げ足取りたくて必死になっているようにしか思えなくなるから見ていてキツイ。かんべんしてほしい。

 正しい的を得た批評もありますが、大抵イヤ問題はそこじゃないんだ、本質はそこにはないということまで、短絡的に武の概念に当てはめて論じる傾向を感じます。法律違反・自己規律とかね。そういう性質もあるんだろうけども、近代社会においては法を守ったかどうかで一義的に判断しないとしょうがない、しかもマスコミや法運用の面で明らかに原則なく空気でさばくという現状がある、行政官僚が暴走しているという現状などを考えたら、そんな簡単に自己規律のあるなしで論じられる問題じゃないでしょう。子供に注意したら理屈を超えるとか、そりゃ武道家に注意された身がすくんで動けないのが普通でしょう(笑)。

 というわけで、個人的に内田さんという人は「おお、なるほど、さすが内田さんいいこと言うなぁ」というのもありながら、「いやこれは違うだろ…。何いってんの?」という落差がある人なので内田さんとの対談というのは心配でしたが案の定でした(笑)。

 無論、だからと言って内田はNGとかそういうのは論外ですよ。良いところもあれば悪いところもある。ただそれだけ。それをもってして、だからダメなんだ!とかプギャーとあざけったりするのは紳士のすることではありませんからね。そんなくだらないことしていたらジョースター卿に叱られますから。内田さんには素晴らしいところと、見当違いなところがある―それ以上でもそれ以下でもありません。


 本著の感想を書くにあたって編集された尹さんにフォローされて、やばいな感想でこういうこと書いたら怒られるかなぁ?とちょっとビビってましたが、なんかすぐリムられたので遠慮することもなく書けるようになりました(笑)。甲野さんが十年に一度も出ない本!と太鼓判を押していますが、正直甲野さんとの共著

武学探究―その真を求めて/冬弓舎

武学探究 (巻之2)/冬弓舎

 ―武学探求を超えるものではないと思います。この本を読んで、光岡さんの思想・哲学、キャリアの話やあるいは韓氏意拳のもっと具体的な練習法などそういった点が知りたい!となりましたが、荒天型の武術、武道という観念・必要性はもうほかの方が何十年も前からその重要性を説いて来られたわけですから、今さらその話をしてもそこまでインパクトはないと思いました。
 正直、内田さんではなくFLOWという素晴らしい著作を書いた尹さんがインタヴューして光岡さんの武術経験や、韓氏意拳についての解説などを書いたほうが良かったのでは?という気がしました。ハワイアン・サモアンの話とかもっとハワイでの話を知りたくなりましたし。

 不思議なのは光岡さん単独で本を出さないこと、光岡さんはどうして本を書かれないのかなぁ?やはりまだ若いから今のような段階ではそういう気になれないということなのだろうか?語って、喋ってどうにかなるものでもないと言われればそれまでなんですけどもね。随想録的な感じでもいいからそういう本が読みたいなぁと思いましたね。

 ※追記、忘れてました。ハワイアン・サモアンこういった部族の感覚を持っている人たちは近代人が忘れてしまった身体性を有している人たちであり、現代の人間は彼らから忘れてしまった身体性を取り戻すために参考にしなくてはならないのですが、彼らは近代化に適応できていないという事実があること。

 世界大戦までの歴史を見ても、そういった彼ら個々人は強いけど、近代兵器の前に圧倒されて何も出来なかった。下手をしたらタスマニアのように民族浄化どころか民族を根底から抹殺されてしまいかねなかったわけです。今そういう流れはなくなりましたけども、病気や災害同じような危機が何かしらあったら圧倒的に脆いわけですね。そういう意味で変化についていけていないということを忘れてはならないと思います。

TPPなんか話題になっているように、ヘタしたら大国の都合のいいルールを世界中に押し付けられてしまうかもしれない。自分たち民族が生きていく風土を奪われるかもしれない。モンサント遺伝子組み換え作物で自分たちのルールに従わない限り農業をできなくさせるようにね。そういう力を跳ね除ける力を備えておかなくてはならない。

 古代人のようなライフスタイルを否定するつもりはありませんが、やはり近代化的なそれと古代の身体性両方を同時に追求しないといけないでしょうね。自然の感覚・感性をどうやって取り戻すか、そういったテーマが教育の中で論じられていないのは恐ろしいですなぁ…。教育論議のくだらない内容を見ていても、本当に何もわかっていなんだろうなぁというのがよくわかりますね。